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合掌・渡哲也!追悼番組は「仁義なき戦い」を放映し歌はくちなしの花をリバイバルで!

 
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嫌な予感はしていましたが、10日に亡くなっていましたか。今となっては、やはりあの宝酒造CMが最後の…寂しい限りです。若い時の渡哲也!あまり見に行ったことはありませんでしたが、映画の中では文句なくカッコ良かったな。男の役をやらせると裕次郎よりカッコ良かったなぁ。日活映画がロマンポルノ路線に舵を取ると、退社してテレビで活躍。「西部警察」の大門役での派手なアクションシーンが多くの人の記憶にあるのでしょう。しかし、例えば、古すぎますかね。自分の歳がバレてしまいますが「仁義なき戦い」の頃、ヤクザ役で出演していた俳優・渡哲也はまだ輝いていました。他の昭和の大スターたちと一緒に…菅原文太!追悼番組を放映するなら、是非とも、その中の一つに加えて頂きたい。若くてしなやかな身のこなしがさまになっていました。これなら、吉永小百合が惚れても不思議がない男だなぁ~と感じますよ。きっと!…病気にさえならなかったなら…悔やまれます。なんで、あんな立派な体格の男だったのに…。

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合掌・渡哲也!

俳優の渡哲也(わたり・てつや、本名渡瀬 道彦=わたせ・みちひこ)が10日、都内の病院で肺炎のため死去。享年78歳。島根県生まれの淡路島育ち。所属事務所の石原プロモーションが発表。

お別れ会や偲ぶ会も行われないという…故人の意思だそうですから、きっと去り際をわきまえた人だったという印象ですね。

複数の関係者によると、入院先の東京都内の病院で親族に看取られ、静かに息を引き取ったという。2015年6月に心筋梗塞の手術を受けて以降、入退院を繰り返し、ここ数年は呼吸器疾患などで自宅療養を続けていた。

今年6月、石原プロモーション創業者でもある俳優、石原裕次郎さんの生前の映像と共演した宝酒造CM「よろこびをお伝えして50年~幻の共演~」のナレーション録りを自宅で行ったのが、やはり最後の仕事となりました。そんな予感がしていました。

簡単プロフィール

渡 哲也(わたり てつや:1941年12月28日 – 2020年8月10日没)
日本の俳優・歌手。本名、渡瀬 道彦(わたせ みちひこ)、俳優の渡瀬恒彦は実弟。

兵庫県淡路島出身。株式会社石原プロモーション相談取締役。
1941年に島根・安来市に生まれ、兵庫・淡路島で育つ。青学大在学中の64年、浅丘ルリ子(80)が主演した映画「執炎」の相手役に実弟、渡瀬恒彦(のちに俳優、2017年死去、享年72)がこっそり応募。それがきっかけで日活にスカウトされ、65年に映画「あばれ騎士道」の主演で俳優としての一歩を踏み出した。又、同年に「純愛のブルース」で歌手デビューも飾る。

青山学院大学経済学部卒業。大学在学中は空手道部 (流派は日本空手協会・松濤館流)に在籍し、青山学院大学・空手道部OB会長・渡瀬道彦の札もかかっていた。空手弐段、柔道初段

大学へ通うため上京。弟の渡瀬恒彦と共に新宿区柏木(現・北新宿)で下宿していたが、在学中に日活が浅丘ルリ子主演100本記念映画の相手役となる新人「ミスターX」を募集していた。弟の渡瀬や所属していた空手部の仲間が内緒で応募したため、本人は激怒するが、就職を希望した日本航空の整備士社員の採用試験で不合格になり、「撮影所に行けば、石原裕次郎に会えるかも知れない」と友人から言われ、日活撮影所を訪問した。その時にスカウトを受けて1964年(昭和39年)に日活へ入社。

既に斜陽期に差し掛かってた日活では高橋英樹に続くスター候補として、デビュー前の記者会見では破格の扱いを受け “映画界待望久し!日活に驚異の新星!渡哲也!!” の横断幕 (実は模造紙) で大々的に売り出された。記者会見の場で瓦割りを披露し、翌日のスポーツ紙やニュース映像でも大きく取り上げられた。

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

懐かしいプロフィールです。デビュー後の活躍は皆さんがご存じの通りです。

 

吉永小百合との初共演映画の『愛と死の記録』で第17回ブルーリボン賞新人賞を獲得。 また裕次郎2世と言われたことから、リバイバル版の『嵐を呼ぶ男』に主演。

 

1968年(昭和43年)舛田利雄監督による『無頼より・大幹部』から始まる『無頼』シリーズ6作品は渡の日活時代の代表作。

 

渡は『東京流れ者』や『無頼シリーズ』などで、一躍日活ニューアクション時代のスターとなったが、1971年、日活のロマンポルノ路線への転換にともない、1971年(昭和46年)7月封切の『関東破門状』を最後に日活を退社。

 

東映など映画会社数社から渡の引き合いがあるものの、石原への尊敬の念などから、渡は1971年(昭和46年)、借金で倒産寸前の石原プロモーションへ入社

 

1971年(昭和46年)9月封切の『さらば掟』を手始めに『ゴキブリ刑事』、『野良犬まで』などの松竹、東宝の作品に主演、準主演で出演。また連続テレビドラマにも出演する中、1974年(昭和49年)、大河ドラマ『勝海舟』の主演に抜擢。

 

しかし収録中に肋膜炎になり入院。第9回までしか出演出来ず途中降板となる。なお代役は松方弘樹が務めた。風邪をこじらせた後、急性肝機能不全症を併発し入院は9か月に及んだ。一方で前年1973年8月にリリースした「くちなしの花」が年明けからヒットチャートを上昇し、1974年の年間シングルチャートで7位を記録。

 

オリコンセールス:77.4万枚、累計150万枚を売り上げ、全日本有線放送大賞金賞も獲得し渡の代表曲となった。渡の体調も秋には回復し、74年末の第25回NHK紅白歌合戦に初出場。また93年にも再出場。

追悼番組は「仁義なき戦い」を放映…病気にさえならなかったら…。

追悼番組は「西部警察」や「大都会」などのテレビ番組が中心となるでしょうが、忘れて頂きたくないのが「仁義なき戦い」のシリーズです。すでに病に侵されていた渡が狂気じみたヤクザを凄まじい迫力で演じています。見どころ満載です。今から思えば鬼気迫るものが…。

 

1974年(昭和49年)には、再び映画各社の間で激しい争奪戦が起こり、特に弟・恒彦をスカウトした岡田茂東映社長(当時)が「高倉健の次の東映の看板スターにしたい」と熱心に誘い、渡自身も「アクション映画をやりたい、自分のキャラクターを活かしてくれるのは東映を置いて他にない」と強く東映入りを希望したため、1975年(昭和50年)に渡は東映入りの報道もされたほど

元々、1973年の『仁義なき戦い』で菅原文太をスターダムに押し上げた広能昌三役も最初にキャスティングされたのは渡哲也でした。しかし、この時期、渡は体調が優れず実現に至らなかった。惜しい!ホント悔やまれます。破滅的なヤクザを凄絶に演じています。好演いや怪演…か!

1974年暮れ『脱獄広島殺人囚』、「新仁義なき戦いシリーズ」とも渡は出演要請を受けたが諸問題で断り1975年2月、東映実録ヤクザ路線の極北といわれる『仁義の墓場でようやく東映初出演、初主演。

 

同作公開後、岡田社長は「今年はわが陣営に引き込んだ渡哲也君の”渡路線”を確立することだ」とぶち上げ、この年4月の『大脱獄』で高倉健と、5月の『県警対組織暴力』で菅原文太と競演させ、6月の『スーパー・アクション/強奪』(『資金源強奪』として映画化)と8月の『日本暴力列島・北九州電撃戦』(映画化されず)で主演させ、”東映スター渡”をイメージ付けようとした。

 

しかし、『仁義の墓場』撮影後、再び病に倒れ渡は結局東映と専属契約を結ばず。先の『大脱獄』は、最初は高倉健、渡哲也、五木ひろしの三大共演を予定していたが、五木がギャラ問題で降り、代わりに抜擢されたのが菅原文太で、高倉、渡、菅原という三大共演の可能性もあり、実際に三人の名前の書かれたポスターも製作された

 

渡が入院したため三大共演はおろか、渡と高倉、渡と菅原の共演も永遠に実現することはなかった。この1975年は、東宝系の芸苑社製作で今井正監督の水上勉原作『その橋まで』の映画化の主演も受けていたがこれも流れた

 

入院は延べ2年半に及んだ。病み上がりで撮影中に体調が急激に悪化した『仁義の墓場』は点滴を打ち打ちながら演じる渡の負のエネルギーが、石川力夫の怨念が乗り移ったかのような迫力を持ち評価が高い

 

キネマ旬報「オールタイムベスト・ベスト100」日本映画編(1999年版)では、日本映画歴代38位に選出されている。1976年(昭和51年)『やくざの墓場 くちなしの花』の主演で第19回ブルーリボン賞主演男優賞を獲得。渡はこの後石原プロのテレビドラマに専念するため映画出演は一時的に撤退。

 

その後1996年、やはり岡田茂東映会長(当時)に促され、『わが心の銀河鉄道 宮沢賢治物語』の宮沢賢治の父・政次郎役で20年ぶりに映画界に本格復帰した。本作でこの年の各映画賞助演男優賞を独占している。

https://twitter.com/nicewing1211/status/1294221986499973122

石原プロは会社再建と経営安定のため、テレビドラマへ本格進出。渡にとって復帰第一作及び主演ドラマ『大都会 闘いの日々』は『大都会 PARTII』『大都会 PARTIII』とシリーズ化、続いて主演した『西部警察』もシリーズ化され、5年間放映された。 これら刑事ドラマでの“角刈りにサングラス”というスタイルは渡のトレードマークとなった。

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歌はくちなしの花をリバイバルで!

追悼番組はどれだけ放映されるだろうか。楽しみではありますが…。歌もカラオケの十八番!
くちなしの花を放映して頂きたい。

できればNHK紅白歌合戦に出場した時などを中心に…。
他のヒット曲はあまり知りませんが、これだけで十分ですね。

 

73年に「くちなしの花」が150万枚の大ヒットを記録し、74年と93年のNHK紅白歌合戦に出場して同曲を歌っています。考えてみると、レコードが100万枚以上も売れるなんて凄い時代だった!…今では考えられません。

 

病に悩まされ続けた人生が終わりました。74年に胸膜炎を患い、主演を射止めたNHK大河ドラマ「勝海舟」を途中降板。これは返す返すも残念でした。91年には直腸がん手術でオストメイト(人工肛門使用者)になったことを告白。…安らかにお休みください。

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合掌・渡哲也!~まとめ

いろいろな方々が哀悼の意を表しています。

 

「天国では、石原軍団の看板を下ろして安堵した渡さんと裕次郎さんが酒を酌み交わして思い出話に花を咲かせているに違いない。」などのコメントも…。

このボランティア活動が印象的でした。映画やテレビドラマの中で男を演じさせたら、なかなか、こんな味のある演技をできる人は、もう少ないのでは?

 

映画で共演した女優の吉永小百合は14日、「夏の海が大好きだった渡さんは、泳いで泳いで(弟の渡瀬)恒彦さんのところに行ってしまったのでしょうか。大きな病気を何度も乗り越えてこられたのに残念です。ご冥福を心からお祈りいたします」とするコメントを発表。語りつくせない思い出がある人だったかと…。心中お察しいたします。

そう、また昭和が一つ終わりました。
銀幕のスターたちが今は亡き…梅宮辰夫、松方弘樹、菅原文太…ほかには?

 

小林旭…いや、まだ存命だったか!?…失礼しました。

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