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稀代/昭和の作曲家・筒美京平氏死去!いつから誤嚥性肺炎に?大ヒット曲連発の秘訣?

 
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若い人でも、どこかでこの人の曲を聞いたことがあるなぁ~と思ったはずです。私は、この人の名前さぇどこかで聞いた事があるなぁ~という程度でしたが、『また逢う日まで』『魅せられて』などの作曲者だと分かるととても懐かしく感じられました。どちらの曲も若い頃、テレビで良く流れていました。何度も聞いた記憶があります。でも、こんなにヒット曲を手掛けているとは知りませんでした。稀代のヒットメーカーと呼ばれた同氏の足跡を追ってみると、確かに凄い!作曲作品の総売り上げ枚数は7500万枚以上で、日本の作曲家としては歴代トップだとか。…まったく凄いの一言に尽きます。これからも、きっとカラオケなどで、若い人にも歌い継がれることでしょうね。

日本レコード大賞受賞曲「また逢う日まで」「魅せられて」などで昭和歌謡を彩った、作曲家の筒美京平(つつみ・きょうへい、本名・渡邊榮吉=わたなべ・えいきち)さんが7日、誤嚥(ごえん)性肺炎のため亡くなった。享年80歳。東京都出身。

こんな凄い人、令和の時代に再び現れるのかなぁ~?…という感じが…。
昭和・稀代のヒットメーカー【職業作曲家】に合掌!

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稀代/昭和の作曲家・筒美京平氏死去!いつから誤嚥性肺炎に?

今は、シンガーソングライターばかりの時代ですから、職業作曲家でヒットメーカーという呼称の人にはあまりお目にかかれませんね。歌も等身大のものばかりで、これほどのヒット曲を作れる人が、また現れるとはちょっと思えません。

死因となった誤嚥性肺炎は、日本人の高齢化に伴い急増している病気らしいですね。肺炎と聞いてただの風邪の仲間かと思ったら大間違いで、一度罹ると3割以上がなくなるという高齢者にとっては死に至る病、「死の病」だとのこと。侮れません。

今や日本人の死亡原因の第3位にあげられる肺炎。(1位はガン、2位は心疾患)
誤嚥性肺炎に罹ったことに気づかないケースが多いらしく、気づいた時は手遅れになる…。

昨年4月に亡くなった漫画家のモンキー・パンチさん(83=享年、以下同=)、2017年4月には歌手のペギー葉山さん(83)や元横綱で相撲協会理事長を務めた佐田の山さん(79)、同年5月には劇団四季で活躍した日下武史(86)も肺炎で亡くなっている。2016年には野球解説者の豊田泰光さん(81)や役者の根津甚八さん(69)も誤嚥性肺炎によって命を落としている。

関係者によると、筒美さんは長年、パーキンソン病を患っており、ここ数年、自宅療養をしていたとのこと。体調の良い時には、創作活動に取りかかる意欲をみせていたというのですが、高齢者が自宅療養する時に、一番気をつけなければいけないのが『誤嚥性肺炎』のようです。

高齢者になると食べ物や唾を飲み下す力が衰え、誤って肺に入り込んでも、咳で吐き出すことができなくなるのだとか…。それで肺炎になっているのに気がつかないケースが多く、気づいたときは重症化している危険性が…。

もし、間違って食べ物が気管に入り込んでも、通常なら、むせたり咳き込んだりすることで排出される。いわゆる「咳反射」だ。 「ところが、老化が進み、反射神経(自律神経)や筋肉が衰えてくると、嚥下の動作がうまくできず、誤嚥しても咳反射できなくなってしまうらしい。

 

稀代の昭和の作曲家・筒美京平氏も、この病には勝てなかった。故人の遺志により、葬儀(喪主=妻・善子さん)は近親者のみで執り行われ、「お別れの会」などの開催の予定は、現時点ではないとのこと。

筒美京平氏の簡単プロフィール

筒美さんは1940年5月28日生まれ、東京都出身。幼い頃からピアノに親しみ、青山学院大在学中にはジャズバンドで活躍。青山学院大学卒業後、63年に日本グラモフォン・レコード株式会社(現ユニバーサルミュージック)に入社。

 

洋楽ディレクターとして勤務後、66年に「黄色いレモン」で作曲家デビュー。後に名コンビとなる作詞家の橋本淳氏からの誘いで作曲やアレンジを始め、作曲家のすぎやまこういち氏に師事。67年にヴィレッジ・シンガーズの「バラ色の雲」がヒットし、同年、グラモフォンを退社。

 

いしだあゆみさんが歌った「ブルー・ライト・ヨコハマ」がヒットし、69年に日本レコード大賞作曲賞を受賞。71年には尾崎紀世彦さんの「また逢う日まで」、79年にはジュディ・オングさんの「魅せられて」と手がけた楽曲が日本レコード大賞に輝いた。

 

シンガー・ソングライターが等身大の表現で人気を集める時代となっても、「職業作曲家」として実力を発揮。次々とヒット曲を出し、平成に入ってもTOKIOなどに書いた曲がチャート1位を獲得している。

 

グループサウンズやアイドルなどに提供した作品は3000曲に及び、橋本氏とのコンビ作品が最も多い。ヒットチャートのベストテン入りは200曲以上、1位獲得は約40曲に及ぶ。

 

作曲家別のシングル売り上げ枚数は歴代1位の約7560万枚!2位は小室哲哉氏の約7185万枚。
オリコンシングルランキング1位獲得作品数は39に上るそうです。

 

しかし、サザエさんの曲まで、作曲していたとは知らなかった。初耳で…アニメまで素直に凄い!
ポップス界最大のヒットメーカーとして数々の名曲を送り出した筒美氏は、表舞台に出ることを好まず…

 

あまりメディアにも姿を現さず、裏方に徹し【職人:職業作曲家】としての立場を、最期まで貫き、ひっそりと天国へと旅立ちました。男として、誠にカッコいい一生ですね。合掌…祈念!

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大ヒット曲連発の秘訣~稀代のヒットメーカーの作品を年代別に列挙!

筒美氏は大ヒット曲を連発する秘訣として、音楽関係者に『大衆の半歩先を行くことだ。2歩も3歩も先では、大衆はついてこれない』と語っているそうです。ヒットメーカーという呼称を大事にしてきた同氏ならではの言葉ですね。

 

洋楽の薫りを取り込んで、しゃれた作風が持ち味の筒美氏ですが、職業作曲家としてのプライドが支えだったのでしょうか。編曲も華麗で、親しみやすい旋律の中で、リズムが何ともいえない曲に仕立て上げたりとか、多彩な才能を発揮しています。

123.5万枚を売り上げ、最大のヒットとなった「魅せられて」(79年、ジュディ・オング)を始め、手掛けたジャンルは幅広い。洋楽がベースの洗練されたメロディーを持ち味に、自身の制作曲について「はやり曲」と称し、時代の流れを的確に捉えた。近藤真彦(56)の「スニーカーぶる~す」(80年)、松本伊代(55)の「センチメンタル・ジャーニー」(81年)、少年隊の「仮面舞踏会」(85年)と、多くのデビュー曲を手掛けるなど、80年代アイドルの代表曲は筒美作品で埋め尽くされた感じです。

歌詞を大事にし、日本的な抒情性と洋楽の洒脱さを見事に融合させた稀代の昭和の大作曲家だったと、これからも絶賛される人でしょうね。

 

日本作曲家協会が主催する日本レコード大賞では、68年に作曲し、翌69年にヒットした、いしだあゆみの「ブルー・ライト・ヨコハマ」で作曲賞も受賞。71年には朝丘雪路さんの「雨がやんだら」と平山三紀の「真夏の出来事」で…。

 

阿久悠さんが作詞し、尾崎紀世彦さんが歌った「また逢う日まで」は1971年に大ヒット。阿木燿子氏作詞、ジュディ・オング歌唱の「魅せられて」も79年を代表する曲に…。

 

74年にも野口五郎の「甘い生活」でいずれも同賞を受けている。作曲作品の総売り上げ枚数は7500万枚以上で、日本の作曲家としては歴代1位。オリコンが集計を開始した68年から約半世紀に渡って毎年ヒットチャートに名曲を送り込んだ。

 

ジャニーズ事務所との関わりも深く、当時在籍していた郷ひろみの72年のデビュー曲「男の子女の子」も担当。近藤真彦の「スニーカーぶる~す」「ギンギラギンにさりげなく」のほか、少年隊の「仮面舞踏会」「君だけに」、KinKi Kidsの「やめないで,PURE」も手掛けた。

 

新人女性歌手にも多くのヒット曲を提供。70年代は南沙織に「17才」、麻丘めぐみに「芽ばえ」「わたしの彼は左きき」、浅田美代子に「赤い風船」、太田裕美に「木綿のハンカチーフ」、岩崎宏美に「ロマンス」、中原理恵に「東京ららばい」をおくった。

 

80年代は河合奈保子、小泉今日子、松本伊代、中山美穂、本田美奈子さんらの歌唱曲がヒット。稲垣潤一の「ドラマティック・レイン」や、C-C-Bの「Romanticが止まらない」も作曲。

         筒美氏が作曲した主な作品
 発売年 曲              名 アーティスト
 1968 ブルー・ライト・ヨコハマ いしだあゆみ
  69 サザエさん 宇野ゆう子
  71 また逢う日まで 尾崎紀世彦
真夏の出来事 平山三紀
17歳 南沙織
  72 男の子女の子 郷ひとみ
  73 わたしの彼は左利き 麻丘めぐみ
  74 甘い生活 野口五郎
  75 ロマンス 岩崎宏美
木綿のハンカチーフ 太田裕美
  78 飛んでイスタンブール 庄野真代
  79 魅せられて ジュディ・オング
セクシャルバイオレット№1 桑名正博
  80 スニーカーブルース 近藤真彦
  85 Romanticが止まらない C-C-B
なんてたってアイドル 小泉今日子
仮面舞踏会 少年隊
  94 人魚 NOKKO
TENSAを取ろう!-内田の野望ー 内田有紀
  99 やめないで,PURE KinkiKids
 2003 AMBITIOUS  JAPAN TOKKIO

ざっと、掲げただけでも、以上のようです。とても全部を掲げるのは無理です。第一、数えきれません。この人から曲を貰ってヒットした多くの歌手が哀悼の意を表していますが、それはそうでしょう。これだけヒット曲に恵まれれば…。

ネットの声・反応

タレントの堺正章(74)は「筒美京平ワールドは永遠です」と悼んでいます。所属していた「ザ・スパイダース」が1970年に解散した後、翌71年に筒美さんが作曲、編曲を手掛けた「さらば恋人」でソロデビュー。

『さらば恋人』は堺の代表曲となり、のちに多くの歌手によってカバーされた名曲ですね。最初、聞いた時、アルバート・ハモンドの『カリフォルニアの青い空』のパクリかと思いましたが、完全に間違いでした。堺正章の歌の方が発売が早かった!…何たること。

傷害に3000曲弱を作曲。
売上総数は7560万枚!

 

オリコンシングルランキングの1位獲得数 39
悲しいことにあんまり凄すぎて、私のような凡人には、この方の偉大さが良く分からない。

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