コロナ禍で、多くの人々の生活が困窮しています。そんな絶望しか見いだせない様な世相の中…困難に満ちた人生を生き抜く上で大きな力となるのではないか。没後、200年!一人の男の壮絶な人生模様を辿ることで、何らかのヒントにはなるのではないか、という事で静かな脚光を浴びたようですね。最近、読売新聞の記事にも載ったという「土佐の船乗り・長平:野村長平」、あだ名は「無人島長平」という…数奇な男の人生・漂流談。作家・吉村昭氏の長編小説『漂流』のモデルとなった人物でもあります。絶望しかない逆境の中に【希望】を見出す力…意志力の凄さに着目!
無人島長平はコロナ禍を脱出するヒントになる?…東洋のロビンソン・クルーソー!
日本の、いや東洋のロビンソン・クルーソーは土佐の船乗り『野村長平』で間違いない。江戸時代の超人かと?24歳で漂着した無人島で、12年もの間0円生活(?)を続け&同島を脱出するために手作り帆船を13人の仲間と共に作り上げ、大海原に乗り出す。この自助・共助、決断力に感動!…
結果、230㎞も離れた島への脱出に成功!そして…約1年後、故郷・土佐の岸本へ13年ぶりの生還を果たすという劇的な物語。現代を生き抜く知恵が、随所に溢れている。何よりも最後の決断力が凄い。…
【土佐湾を睥睨する無人島長平の像~強い意志力が顔に現れている】江戸時代、土佐から760キロも離れた無人の小島・「鳥島」に船で流れ着き、12年後に生還を果たしたという長平…没後200年目を迎える「東洋のロビンソン・クルーソー」は不撓不屈の精神を今に伝えているという。
【読売新聞から転載のルート図】
最後は伊豆諸島南海の絶島・鳥島から人の住む島へ、手作りの帆掛け船で230㎞もの大航海に乗り出す。そして見事に脱出に成功した後、故郷の土佐・岸本へ奇跡の生還を果たす。長年の漂流生活を経て 長平は37歳となっていたが…。
帰郷後は10代藩主・山内豊策(とよかず)から「野村」姓と年3俵(180キロ)の禄を与えられ、各地で体験談を語りながら、収入を得て妻子にも恵まれ、60年の人生を全うしたという稀有の人物。唯一の公助がこれで良いのか?現代では許されないと思います。
20年後、「ジョン万次郎」が同島に漂着した時、アメリカの捕鯨船に救助されるまでの間、長平らが書き残した板版と数々の品が命と等しい生活の助けになったというエピソード・因縁まで残っている。逆境の中にあっても、他人への思いやりを忘れないという精神の持ち主は魅力的である。
希望捨てぬ姿を多くの人に
高知県香南市香我美町岸本出身で、12年余りの無人島生活から生還した「無人島長平」こと野村長平(1762~1821年)の没後200年を顕彰しようと、城山高校(香南市赤岡町)の2年生2人が島での生活を描いた8こま漫画を制作している。生徒は「希望を捨てずに生還した長平に感動。多くの人にも知ってほしい」と話している。
無人島で0円生活12年&手作り帆船で230㎞を航海し、故郷に生還を果たす!
テレビ番組で紹介されている「無人島0円生活」なるものが、いかに娯楽性に満ちたものか、長平の漂流談を調査するにつけて思い知らされます。そして、「無人島からの脱出」が、いかに幼稚で滑稽なものであるか。長平の実話に到底及ぶところではありません。
廻船水夫だった長平は、天明5年(1785年)1月30日、現在の土佐県・赤岡町から出航。奈半利港などに土佐藩の藩米(船荷は天明の飢饉の折り、救済米だった)を運んだ帰途、嵐で遭難。
藩政下の鎖国時代、領民が他国へ逃亡することを防ぐために 庶民が所有する船は 簡素な造りのものしか認められておらず、舵や帆柱を失った長平の船が 漂流船となったのは必然のなせる業。命を的の極限状況は宿命だった?実に近寄り難い。到底、人が住める島とは思えない。ここで12年間も暮らせる知恵とは…なに?
絶海の孤島・鳥島に漂着
損傷した船は土佐沖を流れる黒潮に乗ったとされ、舵(かじ)や飲み水、火種も失い、漂流12日後に伊豆諸島南東の無人島・鳥島に漂着。乗船していた長平ら4人は、生米をかじり、雨水で命をつないでいたという。
無人島に上陸後はアホウドリの肉を食べたり、羽根で服を作ったりして寛政9年(1797年)までの12年4カ月間…命をつなぎ、遂に故郷に帰還を果たしたという破天荒で数奇な人生を送った男の物語は、実に興味深い。
鳥島に上陸した時点では 長平以外にも仲間の乗組員が3名居たのだが、2年以内に相次いで死亡。当初は火器を持っていなかったため、アホウドリの生食が死亡の大きな原因だったと思われる。アホウドリを生か乾燥して食するしかないという絶海の孤島での単独生活は想像を絶する。
鳥島での生活は 雨風の当たらない岩窟に居を構え、食べ物は島に生息するアホウドリの肉と卵、少量の海産物など。飲用水はアホウドリの卵の殻に 天水(雨水)や湧水を貯め、衣類はアホウドリの羽を縫い繕って着衣としたのだが…。
暦は 月を観察して、三日月を見た回数から おおよその年月を把握したという。周囲8.5キロの小島。…写真で見る限り、木は一本も生えていない。ほとんどが断崖絶壁で、船が停泊できる様な場所は見当たらない。わずかに苔の様な草が生えているだけの絶海の孤島。
ここで何年も生き抜くのは通常の勇気と知恵では不可能である。4人は岩穴で生活し、加工した釘で魚を釣り、貝や海藻を採ったという。島に生息するアホウドリの羽毛は、木の皮をほぐした繊維と合わせて衣服にした。
火をおこせない生活は厳しく、仲間の3人は2年を待たずに死亡したという残酷な現実にも決してめげない。この諦めないという強固な意志はどこから…?船乗りとしての底力!蛮勇では決して出来ない。
長平は1年5か月もの間、孤独を強いられたという。木ぎれで数珠玉を毎日一つ作り、年月を数えたとも…。しかし、天明8年(1788年)1月に大坂の船が漂着、11名が合流(長平漂流から3年後)すると、少し展望が開けたか?…
さらに、寛政2年(1790) 1月、薩摩・日向国からの船で6名が漂着。火打ちや大工の道具が手に入ったが、助けを待つうちに4人が死亡。同6年(1794年)の夏、残った14人で、流木を集めて船造りを始めたという。集団生活で各々の知恵と協力体制を作り上げたのか。食料調達の間に…
漂流生活で最大の18名のコミュニティとなると同時に、鍋や釜 火打石 大工道具など、一定の生活道具が揃った。彼らは長平・大坂船の船頭・日向船の船頭の三人をリーダー格として 共同生活を送り、住居や溜め池等 最低限のインフラを整え、食糧の確保を分担して行った。しかしながら 栄養失調や精神的な影響があり、寛政5年(1793)までに 4名が死亡した。
- 寛政4年(1792年): 島原大変肥後迷惑。眉山の山体崩壊による津波で死者15,000人以上有史以来日本最大の火山災害が発生した大変な年でもある。
寛政4年頃
鳥島漂着から数年経ったが 島の周囲に一向に他船が現れないことから、救助されるのを諦め、 島からの脱出を決意するに至ったらしい。後の詳細は四国のおすすめ観光スポットを紹介
無人島長平の像:地図
< 自家用車 >
高松駅から 約2時間10分、134km
高知龍馬空港から 約15分、7.4km
< 公共交通機関 >
土佐くろしお鉄道 香我美駅下車 すぐ
無人島長平はコロナ禍を脱出するヒントになる?無人島で0円生活12年…~まとめ
野村 長平は、江戸時代の土佐国岸本浦の船乗り。船の難破による鳥島での無人島生活を経て、故郷に帰還した。無人島長平と通称された。–Wikipedia
坂本龍馬、岩崎弥太郎、板垣退助、寺田寅彦……。歴史の教科書で紹介される偉人を輩出する高知。彼らと比べても、何ら遜色のない人物とお見受け致し候。あんな絶海の孤島に流れ着き、希望を失わずに生還劇を果たすという奇跡は、通常では決して生まれない。
一人になりながらも、最後には14人の仲間と脱出を果たすという生還劇は現代に通じる何かが…
高知県香南市香我美町岸本
「生きるために様々な工夫を凝らした。決して諦めることがなかった」節目の年を前に像の修復を計画する準備委員会の矢野佳仁会長は、地元の英雄をそう語っているそうです。確かに、現代に通じる何かがあります。以下の思いやりの精神と共に…ジョン万次郎もこれに救われた?…
島を離れるにあたり、長平は、「今後漂着する人のため」と、アホウドリを干物にすれば保存食となると記した板や道具を岩穴に残した。同9年(97年)6月に出帆。6日間の航海で、約230キロ離れた有人の青ヶ島に到着。島民の船で向かった八丈島や江戸で、役人の取り調べを受けた後、同10年(98年)2月、土佐の地を踏んだ。
2010年に鳥島に渡った探検家・高橋大輔さんは「溶岩に覆われた島で、わずかに水のたまったところにしか緑がない。長平は『それでもこの島には命がある』と、希望をもったのではないか」と、思いをはせる。
高知は今、新型コロナウイルスの影響で、大きな打撃を受けている。高橋さんは長平の偉大さをエピソードを交えて次のように語る。「自分が生きるのに精いっぱいな状況にもかかわらず、亡くなった人の遺骨を持ち帰り、魂を救おうとした。みんなでピンチを乗り越えようとしたんです」と。
ガースーなる人物が「自助、共助、公助」なる言葉を都合よく使って、国民に自助努力ばかりを強いているのですが、野村長平の様な人物と比較すると、…余りに狭小な心の総理・総裁かと。
口先でコロナで亡くなった方々に追悼の意を表わしたところで、国民に真剣さは伝わらないはず。何らの行動も伴っていないのですから…まったく無理。今から遺骨を拾いに行く?…
自ら、自粛を破り、後手後手の政策ばかりを公開するも、何らの謝罪もなし。考え得る限りの迅速な行動を取ったと開き直る。巧言令色少なし仁の典型例かと。
素直に謝るべきでしょう。GoToではウソをついて済みませんでした…と。自助、共助、公助の真の意味も露骨に取り違えてほしくない。長平の爪の垢でも煎じて飲んだ方がよろしいかと…税金を湯水のように使いまくり、てんで恥じない。こういう御仁は、もはや日本に不要。
国民には自助努力を求め、何ら恥じない。そして、大した公助はしない。一生懸命働いてきて今、困窮している人はもう、声高に叫ぶべきかと…政府に向かって!聞こえないふりをしている政治家に、このままでは到底響かない。態度も改めない。歳費を、税金を貪り尽くすだけの所業は醜悪そのもの。
これではダメで、禍を転じて福と為すには、どうすれば良いか?無用の長物である政府には、もはや頼らない。各々が知恵と勇気を出し合い、共助とする。コロナ禍を生き抜く術なり。公助は生活保護の申請を!
給付金では、もう間に合わない。生きるために様々な工夫を凝らすべきで、自殺などは論外で。各人が勇気と知恵を出し合い、苦境を乗り越える時期が到来したかと…
そして、無用の長物=老害政府は速やかに消えて頂く。出来るだけ早急に!…それが日本の開国。救国に繋がるかと。原稿を棒読みし、後手後手の政策ばかりの発表では、まったく国民の心に響かない。政治家は自らの言葉で自らの信念を、貴重な経験を語るべき!道しるべとして…
できない、経験がないというのなら、困難な事柄を克服して生き抜いて来た先人に、学ぶべき!…答えが多々あるのは確かなこと。我々の日々の営みは決して無駄・無意味ではないはず。…「人間は考える葦である」…菅義偉氏よ。
ペストの大流行、スペイン風邪の蔓延を先人達はどう乗り越えたのか。コロナ禍にどう生かすか。「経験がないから、後手後手の施策も仕方がない」というのでは、あまりに無能である。ワクチンのない時代なら、罹患したら死ぬしかなかった。
感染拡大を抑えるには、やはり隔離しかないのでは?それなのにGoToキャンペーンなどを展開し、コロナを日本中にバラまいて何とする?…ガースー氏よ!医療崩壊を防ぐ方策は何を行ったのか?
想像力が働かない、仮定の話ができないのなら、もはや人の上に立つ資格がない。最悪の事態を想定して働くのが政治家の仕事である。そういう時代なのである。人事権を強行に行使する事で、官僚を黙らせてきただけの男。それだけが取り柄の男では到底、こういう国難は乗り越えられない。
無人島から大海原に乗り出すには勇気と知恵と決断力が不可欠である。年寄りには、その勇気がない。老害の極みである。ついでに倫理観も欠如しているから、日本国民という仲間を説得できるだけの発信力もない!…とナイナイ尽くし…ならば、もはやリーダーの資格はないのだが…。
もう、どこの政党が指揮を取っても同じだろう。ただ、自民党という利権にまみれた集団では、まず不可能・無理なのは明白。政策が捻じ曲がるだけ。野党が持ち回りで総理を決めた方が正解かと。直ちに解散・総選挙をすべき!それが最大のコロナ対策となるから。日本に勇気と決断力を!