津原泰水の小説が出版中止は本当?発売時期や出版社はどこに?
去年11月に発売された作家・百田尚樹の『日本国紀』(幻冬舎)を巡ってネットが炎上中らしい。この本を批判する投稿をツイッターでしたところ「幻冬舎から刊行予定だった文庫本を出せなくなった」と作家の津原泰水氏(54)が、13日の深夜、幻冬舎との一件をツイッターで訴えた。騒ぎが大きくなると、幻冬舎側は毎日新聞社の取材に「文庫化を一方的に中止した事実はない」と否定する一方で、日本国紀への批判をやめるよう津原さんへ働きかけたことは認めた。この後、幻冬舎社長・見城徹氏のツイッターが火に油を注ぐ結果に。
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津原泰水(つはら やすみ)の小説が出版中止は本当?
津原泰水氏の幻冬舎から出版予定だったのは、小説「ヒッキーヒッキーシェイク」で、2016年の織田作之助賞の最終候補にも残った作品で、文庫化の予定だった。
津原泰水氏の写真
著者の津原氏は、昨年11月に幻冬舎から発売された百田尚樹著書の「日本国紀」に対し、「ウエブサイトからのコピペに満ちた自国礼賛本」と批判。
日本国紀は当代一のストリーテラーが、平成最後の年に送り出す、日本通史の決定版(幻冬舎)との触れ込みで南京大虐殺を否定するなど歴史修正主義的な主張が目立つ内容。
序文も「日本ほど素晴らしい歴史を持っている国はありません」と随所に日本を讃える表現があるとか。かって対談本も出した“盟友”の安倍晋三首相と同じく憲法改正を積極的に促す記述もあるらしい。
日本国紀には通常の歴史書にある巻末の参考資料一覧がなく、インターネット上のフリー百科事典「ウッキペディア」や新聞などと酷似した記述があり、発売直後から「コピペしたのではないか」とネット上で批判されていた。
津原氏は、発売当初から日本国紀の「コピペ」に関する騒動をツイッターで取り上げ、「同じ幻冬舎から本を出す作家の立場から、(百田氏は)世間に謝罪すべきだと提言しただけ」としている。
しかし、年明けになり、担当編集者から「このまま(文庫化」を強行しても何もいいことがない」などとするメールが送られてきたという。「弊社(幻冬舎)の方針と津原氏のポリシーの折り合いがつかなかった」とも言われた。
津原氏が詳細を尋ねると「(日本国紀の)販売のモチベーションを下げている者の著作に営業部は協力できない」と伝えられたと主張する。
●一方的に中止されたという津原氏の訴えは、真実なのか?
幻冬舎は毎日新聞の取材に「文庫分を一方的に中止したという津原氏の主張は事実ではありません」と回答。
一方で、「津原氏の日本国紀に関する膨大な数のツイートに対し、【さすがにこれは困ります】とご連絡を差し上げたのは年初のことです」と津原氏に批判をやめるように伝えたことは認めた。
同社によると、その後に電話などで津原氏と編集担当者が話をする中、津原氏の方から「お互いの出版信条の整合性がとれないなら、出版を中止して袂を分かとう」と申し出があり、出版中止が決まったという。
つまり、幻冬舎の主張は津原氏の方から出版中止の申し入れがあったという。
双方の主張がかみ合っていない。
津原氏は騒動後も、百田氏が24日公開の映画「空母いぶき」の首相役をめぐるインタビューについて、俳優の佐藤浩市(58)に絶縁宣言を叩き付けたことに「出ていない人を出禁にする前代未聞の処分」とコメント。
14日には「僕は最初から『日本国紀』の購買を呼びかけています。同じ版元から文庫を出す予定だったんだから、当然じゃないですか」とフォロー。
百田氏は津原氏騒動により、逆に本の知名度が上がったとして、騒動を気にしない旨のコメントをしている。
余裕だな…このスキンヘッドの吾人は!
発売時期や出版社は?
唯一救いは、幻冬舎での文庫化は宙に浮いたが、早川書房の編集者の目に留まり、6月6日に「ハヤカワ文庫JA」から刊行される予定に決まったらしい。
早川の編集者はツイッターに「この小説の素晴らしさに、文庫本が世に出ないことがあってはならないと【義憤】のような感情に駆られたことは確かです」と投稿した。
義憤かぁ!好きな言葉だな。
出版に関わる人たちには絶対失くして欲しくない精神だ。
襟を正して仕事をして欲しい。
これに比べて、幻冬舎代表取締役社長の見城徹氏(68)と来た日には・・・ツイッターを17日に更新。
見城氏は構成作家の百田尚樹氏(63)とトラブルになっていた作家・津原泰水氏(54)の著書の実売部数をツイッター上に公表していた。
見城氏自身は出版に反対だったものの、担当者の熱意に押され出版したが、結果はこのありさま・・・と言いたげな内容だったらしい。
https://twitter.com/kenjo_toru1229/status/1129232773087092736
しかし、出版社が特定の著者の実売部数を公表するのはタブーなのだ。
当然、個人情報を預ける作家や関係者から批判が殺到。
「幻冬舎とは仕事をしない」といった撤退宣言まで出る始末。
見城氏はこの批判を受け、ツイッターを更新し、問題部分を削除したという訳だ。
見城氏は「編集担当者がどれだけの情熱で会社を説得し、出版に漕ぎ着けているかということをわかっていただきたく実売部数をツイートしましたが、本来書くべきことではなかったと反省しています。そのツイートは削除いたしました。申し訳ありませんでした」と上記のように深く謝罪。
誠にみっともない。
幻冬舎の姿勢がこれで良く分かる。
自ら墓穴を掘ってしまった。
●大揺れの出版界
作家の高橋源一郎氏(68)が17日、ツイッターで幻冬舎社長の見城氏に異議申し立て。
「見城さん、出版社のトップとして、これはないよ」と。
見城氏は「津原泰水さんの幻冬舎での1冊目。僕は出版を躊躇しましたが、担当者の熱い想いに負けてOKをだしました。初版5000部、実売1000部も行きませんでした。2冊目が今回の本で僕や営業部の反対を押し切ってまたもや担当者が頑張りました。実売1800部でしたが、担当者の心意気に賭けて文庫化も決断しました」とつぶやき、作家の津原氏の実売部数などを暴露。
高橋氏は「本が売れなかったら『あなたの本は売れないからうちでは扱わない』と当人に言えばいいだけ。それで文句を言う著者はいない。でも『個人情報』を晒して『この人の本は売れませんよ』と触れ回るなんて作家に最低限のリスペクトがあるとできないはずだが」と批判。
波紋は文壇界に広がり、芥川賞作家の平野啓一郎氏(43)も17日、「やり過ぎだろう。見るに耐えない」と見城氏に苦言を呈す。
思想家の内田樹氏(68)は同日、「やはりここまで来たら日本の作家は『幻冬舎とは仕事をしない』ということを宣言すべきだと思います」とツイート。
映画評論家の町山智浩氏(56)は「作家協会は出版社に対して共同声明をだしたほうがいいよ。『出版すると約束した本は必ず出す』『実売部数を著者の了解なしには公表しない』」と促す。
津村氏は「実売は作家本人にも教えないのが基本ルール。だって作家の責任ではない」とコメント。
この騒動、見城氏が問題部分の所を削除し、謝罪した位では簡単に収束しそうにないな。
ネットで一度炎上すると鎮火まで相当の時間と労力がかかりそうだ。
ネットで個人情報に触れるべきでないことぐらい分かりそうに思うのだが、ちょっと迂闊だったかな?出版社トップとしては・・・
まとめ
問題の背景には一体何があるのだろうか?
出版の慣行や出版構造上の問題点については、かなり根深いものがあるようだ。
しかし、ジャーナリストの江川紹子氏(60)が16日のツイッターで述べている「多様な言論より稼ぐ著者、表現の自由より金になる商品が大事。出版社としての矜持はどこへ?」との幻冬舎への問いかけにもある様に、同社の姿勢には疑問を禁じ得ないが、ビジネスとしての出版はそう単純には語りつくせない部分があるようだ。
津原さんの指摘した『日本国紀』の問題は、毎日新聞が昨年12月に記事として取り上げていたことも反射神経のよい記事につながったようだ。
この、言わば「衆人監視」状態となった16日に、幻冬舎、見城社長の発言が飛び出したことで、たやすく「炎上」。
「炎上」は、ネット内だけでなく、新聞やテレビなどの「マスメディア」と「ネットニュース」、個人ブログなどの「SNS」が組み合わさった「共鳴装置」が働くことで引き起こされる。また、当事者より周辺が騒ぎ立て、問題の本質がズレて、拡散していく傾向にあるようだ。
今回も、その典型的な例と言われている。
しかし、作家と出版社間のトラブルがなぜ、こうも問題化したのか。
さらに「実売部数」を公にしたことが、作家から強い反発を招いた理由は何か。
そもそも“実売さらし”が「出版界のご法度」と書いた報道もあるが、それがなぜ、「業界の慣例を破った」ことになるのか。
“実売さらし”が“営業妨害”としたコメントも読んだが、一般常識であれば、商品の販売数は「正確」に公表することが求められている。
長年にわたる文芸作家と出版社の商慣習も背景にあり、事態がわかりにくくなっている。出版状況を理解するために今回の出来事のポイントとして、次の4点を専門家が取り上げている。【植村八潮:専修大学教授(出版学)】
1.言論表現の自由、出版の自由と出版をしないという判断
2.売れる本が売れない本の出版を支えている二重構造
3.出版契約と印税の支払い方法
4.編集者の立場と作家エージェントの必要性
- 最初の点について
言うまでもなく、最終的に出版するか、しないかの判断は出版社にあり、内容面とともにビジネスの判断も尊重される。
内容に不満でも売れる作家だから出版することになれば、編集者として忸怩たる思いを味わうことになる。逆に作家と二人三脚でやってきて、企画が通らない悔しさも編集者は味わうことになる。
- 売れる本が売れない本の出版を支えている二重構造
次に、売れる本が出版を支えている構造についてである。「出版は水物」といわれ、数打つなかで、思いもかけないベストセラーが出ることがある。逆に言えば、ヒット作が出ることで、売れない本を支えているのだ。
今回の一件で言えば、日本人が好きな歴史書の学問的危うさもある。歴史学者である呉座勇一さんの『応仁の乱』(中公新書)がベストセラーになったのは記憶に新しいが、書店の歴史書コーナーに並ぶ本の多くは、学者よりも作家の作品である。
司馬遼太郎の歴史小説から井沢元彦「逆説の日本史シリーズ」のような通史と新説をブレ
ンドした歴史評論まで、歴史書は部数が稼げる分野である。
出版に当たっては史実が曖昧なこともあって、内容の正しさはともかく、意外性や面白さが優先される点がある。
百田尚樹氏の『日本国紀』は2018年11月に出版されベストセラーとなっている。この本も歴史エンターテインメントの系列に属する本といってよい。本が売れない中、売れ筋と人気作家を組み合わせた本は、堅実な企画である。
日本人が国際社会の中で埋没して自信を失っていく中で、「日本は素晴らしい」といった
本が受け入れられていることも下地になっているだろう。皮肉な現象だが、歴史エンターテインメントブームが専門家の研究書の販売を支えているのだ。
- 出版契約と印税の支払い方法
3点目が、出版契約と印税の支払い方法についてである。出版界の印税支払は、主に文芸出版社の「印刷(発行部数)払い」と、人文社会科学・専門書出版社の「実売部数払い」の二つがある。本が売れない中で、前者も後者の契約に移行せざるを得ない時期となっている。
「実売部数払い」であれば、当然のことながら、印税支払いの根拠として、著者に正確な販売部数を伝えないと契約違反となる。一方、文芸出版の世界では、作家は、自分の本が何部印刷したかは伝えられていても、何部売れたかは教えられていないことが多い。
さらに、実態は、作家のプライドを傷つけないため、1万部の印税を払うが、実際には5000部しか印刷せず、売上げは、その三分の一といったこともある。今回、見城社長は、その数字を著者に伝える前に公表したのだから、文芸作家たちの反発につながったのも当然である。
幻冬舎文庫として印刷した部数が5000部と聞いて、正直、そんなに少ないのか、という印象を持った。全国に実店舗を持つ書店は、図書カード取扱店数(8,333店)とほぼ同じである。
よく、1万数千店とした数字があるがこれは実店舗を持たない書店が入っている。つまり、5000部では、全国の書店に配本できないことになる。1万部以上印刷して配本しなければ、平台にも置いてもらえないのだ。
また、文庫本は、価格を安くするために初版を大部数印刷しなくてはならない。時にはオリジナルの文芸単行本より、文庫本の初版部数が多い例もあるだろう。文庫本の出版は、思いの外、ハードルが高いのだ。
取引の常識が周回遅れで出版界に
かつて、文芸作家に出版契約書はない、と言われた。それに変化が訪れたのは、単行本の文庫化からである。最初に単行本を出しても、他の出版社に文庫を持っていかれないように、契約書を交わすことが必要となった。
文庫本を持たない出版社は、他の出版社から文庫が出ると、数%(2%程度と言われる)の売上げ印税をもらう慣例もある。 最近では、その数%を作家印税から引いて、作家の印税を8%にする例もあると聞く。今回のように、親本の出版社ではなく、他社の文庫に入ることも、通例的と言ってよい。
さらに電子書籍化で、契約書が”絶必”となった。出版社は、印刷出版の契約を著者と交わしていても、電子出版は著作権法の根拠が別なことから、改めて契約を結び直す必要もあった。また、出版社は外資系オンライン書店とガチガチの契約をすることで、出版に当たっての責任を負い、著者との契約を求められることになる。
いずれも商取引からいって当たり前の話が、周回遅れて出版界に訪れたのだ。
こうして、文芸作家の間でも出版契約書が常識になったのだが、彼らも発行部数払いは死守したいのである。売上高払いになったら、収入が減ることは明らかで、まして、電子書籍は注文がなければ印税0円である。アドバンス(印税前払い)のような支払契約にしなければ、著述業は死滅するとさえ言われている。
ごく一部のベストセラー作家を除いて、多かれ少なかれ作家は、出版社に生殺与奪の権を
握られているのだ。
今回の一件は、どんぶり勘定的にも似た「印刷(発行部数)払い」が困難になったことも背景にある。
編集者の立場と作家エージェントの必要性
さて、最後に編集者の立場がある。以前は、会社と作家がもめたら、編集者は作家の立場に立つ、と言われてきた。今回の一件では、結果的に担当編集者も会社の意向を伝えることになった。見城社長はオーナーであり社内での決定権を持っていることは十分にうかがえる。
出版社に所属する編集者では、以前のように作家の創作活動を優先して自由に振る舞うことが難しい時代となったのだ。また、出版社が作家の生活を支えることで、自社に縛ることも困難である。
ネットを使って、セルフプロディースの巧みな作家も活躍するようになったが、作品の売り込みに時間を割きたいとは思わない作家のほうが、まだ一般的だろう。 作家が創作活動に専念する一方で、出版機会を増やし、作品の流動性を高めていくことが求められている。
そのためには、欧米のように作家エージェントが、著者と契約し、作品を売り込んでいく形に変わっていくだろう。
出版村の終わりの始まり
今回の一件は、出版界にまかり通ってきた「前近代的な出版商慣習」が持たなくなり、崩壊するプロセスで、表面化した例といえる。
出版商慣習は、小さな入江に面した「出版村」の村人たちが守ってきた「掟」のようなものだ。村人は、著者と出版社と書店で、時折訪れる読書家と取引していればよかった。自分たちだけで村の掟を決めても、何の不都合も問題もなかった。
そこに、ある日、ネットという黒船がはるか沖合から現れ、取引を迫ってきた。村のルールは通用せず、変更も必要だろう。新しいビジネスのアイディアを持ち込む人や、村から外の世界に飛び出す人も現れてくる。
村人は入れ替わり、より広い世界とつながって、新たな書き手、読み手が育っていく。 そんなとき、長老がうっかり、村の掟を口走ると、若い人から反発を受けることになる。
終わりは悲観することではない。始まりなのだと。 【植村八潮:専修大学教授(出版学)】
誠に示唆に富む解説だと思った。
批判するのは、簡単だが従来の手法がもう将来に通じないことは明白な事実なのだ。
英知を絞り出すしかない。