茹でた後、つるんと一皮剥ける様な爽快感をお届けしたいです。

長崎原爆の日!平和記念像のモデルとされる吉田廣一(陸軍大尉)の人物像について!

2020/09/05
 
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今日の読売新聞の一面の見出しを見て思いをはせました。今日8月9日は、被爆から75年目を経た「長崎原爆の日」に当たります。昭和20年(1945年)8月9日午前11時2分。1発の原子爆弾が現在の長崎平和公園記念碑のある上空で炸裂。広島に続く人類史上二発目である原子爆弾の凄まじい破壊力は広島の後、長崎の街をも一瞬で変わり果てた姿に変えました。【長崎 平和祈る「健康美」】と題された朝刊の一文に、平和記念像モデルとされる「吉田廣一・陸軍大尉」に関する記事が掲載されていました。次女である井上潤さんの父親への思いを基に綴られた記事ですので、紹介します。今まで、平和記念像を見ても「凄いなぁ~」とは感じても、モデルが誰であるかなど、あまり考えたりしませんでした。自らの不明を恥じた次第です。

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Contents

長崎原爆の日

長崎市への原子爆弾投下は、第二次世界大戦末期の1945年(昭和20年)8月9日午前11時02分、アメリカ軍が日本の長崎県長崎市に対して原子爆弾「ファットマン(Fat Man)」を投下。 この原子爆弾が人類史上において実戦で使用された最後の核兵器で、ちょうど75年前です。

原爆の投下により、当時の長崎市の人口24万人(推定)のうち約7万4千人が死亡し、建物は約36%が全焼または全半壊したと伝えられています。

 

日本を降伏に追い込むために広島・長崎と2発もの原子爆弾を投下する必要があったのか、については従来から重大な疑念が呈せられています。ソ連が「日ソ中立条約」を一方的に破棄し、満州に侵攻したのが1945年(昭和和20年)8月9日であり、日本が無条件降伏を受け入れる直前です。

 

日本を敗戦に追い込んだのはソ連ではなく、飽くまでもアメリカ軍であるという印象を内外に知らしめるために取られた極めて非人道的な作戦であったのは間違いないことでしょう。結果として、奇襲攻撃となってしまった「真珠湾の攻撃への復讐」などと同列に並べて論じては、本質を見誤ることになるかと…。

 

すでに、組織的な戦闘能力を失っていた日本軍が降伏する時間の問題でした。それにも関わらず原爆が2発も投下されたのは根底に人種差別があるのだと思います。無条件降伏を早めさせるために原爆投下をためらわなかったのは「白人」が黒人やアジア人に対して抱く抜きがたい人種差別のなせる業でしょう。

 

もし、ドイツの降伏が日本より遅く、最後まで抵抗したとしたら、アメリカはドイツに原爆を投下したでしょうか。欧州には決して落とさなかったと思われます。アメリカは日本人がアジア人種だったからここまで残酷になれたのでしょう。日本人を根絶やしにでもする積りだったのでしょうか。

 

同様に黒人蔑視の感情は、今、コロナ禍のアメリカ社会を揺さぶっています。黒人男性の首を膝で圧迫し続け死亡させた白人警察官は過去に18件もの苦情を受けていました。しかし、報いを受けることなく白人の警察官を放置させた結果が今日の混乱を招いています。

 

広島に続く攻撃目標は、第一目標が福岡県小倉市(現:北九州市)で、第二目標が長崎市であったそうです。気象観測機が先行し目標都市の気象状況を確認した後、護衛機無しでB-29が目標都市上空に侵入し、投下する作戦でした。

 

当日の小倉市は雲が多かったのか、あるいは地上で広島への原爆投下の情報を聞いた八幡製鉄所の従業員が少数機編隊で敵機が北上している報を聞き、新型爆弾を警戒して「コールタールを燃やして煙幕を張った」との証言が存在しています。どうもこの煙で小倉市への投下を断念した模様です。

 

不幸中の幸いが、ただ一つだけあったとすれば、長崎市は周りが山で囲まれた特徴ある地形であったため、熱線や爆風が山によって遮断された結果、広島よりも被害は軽減されたという事だけです。周りが平坦な土地であった場合の被害は、広島に落とされた「リトルボーイ」の威力を遥かに超えたであろうと推測されています。

 

また仮に、最初の標的であった小倉市に投下されていた場合、平坦な土地が広がり、本州と九州の接点に位置するために、関門海峡が丸ごと被爆し、小倉市および隣接する戸畑市、若松市、八幡市、門司市、即ち現在の北九州市一帯と下関市まで被害は広がり、死傷者は広島よりも遥かに多くなっていたのではないかと推測されています。

戦闘機の迎撃も、対空砲火もなしで結果はアメリカ軍にとって「技術的には成功した」といえるのでしょうが、約100km離れた熊本県熊本市でも「ピカッと閃光が走り、空気がぶるぶるっと震え、遠くにキノコ雲が上がるのが見えた」との証言があるぐらいで、その凄まじい破壊力や威力は容易に想像できたはずです。

 

また遠く200km離れた大分県中津市でも「あの日長崎方面から立ち上がるキノコ煙が見え、何事かと不安になり恐ろしかった」と当時を語る証言者もいて、極めて残虐非道な作戦だったと確信します。

 

この二発の原子爆弾投下を成功させるために、アメリカは事前に日本の各地には40数発の模擬爆弾を投下して効果の程を試しています。このために少なくとも400人以上が亡くなる惨事が起こっています。

 

酷い実験です。これがアメリカ人の誇りであり、アイデンティティというなら、心の奥底でアメリカとは真の握手ができないと思っています。信じたくない事ですが、広島、長崎と投下しても日本が降伏しなかった時は、第3、第4の原爆を投下する計画だったと聞いています。なぜ、ここまで残酷になれる…!?

平和記念像のモデルとされる吉田廣一(陸軍大尉)について!

平和都市・長崎のシンボルとなっている平和祈念像。右手は原爆の脅威、左手は平和、軽く閉じたまぶたは犠牲者への冥福の祈りを表しています。毎年平和記念式典が行われているのもこの場所。

平和祈念像のモデルは明確に特定されていないそうですが…。


①一説には、長崎県大村市(旧:東彼杵郡)に居住経験もある相撲力士・プロレスラーの力道山とする説…まさか、信じたくない。ちょと太めですし…しかし、顔は何となく似てなくもないかも。

②もう一説には、徳島県脇町出身で柔道・レスリング等の指導者であった吉田廣一(ひろいち):陸軍大尉(通称、「せんとうはん」)だったという説があるそうで、調べている内に初めて知った次第です。

本像台座後部に刻まれている作者・北村西望の言葉には「顔は戦争犠牲者の冥福を祈る 是人種を超越した人間 時に仏 時に神」との一節があり、顔貌は特定の人種の特徴を表さないようにしたとされていますから、どうも顔からでは特定できないみたいです。

 

ここは読売新聞の記事を信じて書き進めてみます。

 

なお、像の右手が天空を指していることから、平和祈念像が爆心地であるとの誤解が散見されるそうですが、正確な爆心地は、平和公園の南端(原爆落下中心地公園)に建てられた「原爆落下中心地碑」によって示されています。

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長崎平和を祈る「健康美」から…

吉田廣一はニューギニアやビルマで戦った陸軍大尉で香川県善通寺で編成された第55師団所属。1939年出征。激烈を極めた南方戦線から、46年に奇跡的な復員を果たしています。

 

戦死公報が届いていた故郷では、すでに葬儀が終わっていたそうです。
「ただいま」と言って、ひょっこり帰ってきた息子に母親は何と声をかけたでしょうか。

 

日本に復員するまでのエピソードには、心底頭が下がります。
男の中の男を見る思いですね。

 

ともすれば、戦前の教育がすべて誤りであったかのような風潮がはびこっていますが、こういう立派な人間を輩出したということは、やはり捨ててはいけない何かがあるのだと思われます。

 

①飢えとマラリアに襲われ「人肉を食った」と言われたほどのニューギニアの戦線から、衰弱した戦友を見捨てず、30キロの退路を戦友を背負うように引っ張って撤退した話。

 

②日本へ帰還する最後の飛行機は6人乗りで、すでに満席。泣いて搭乗を願う身重の若い娘に自分の席を譲った話。感動的です。あの大混乱の中で、最後まで男の優しさを忘れないとは…。

 

誰にでもできることではありません。あり得ない。
強さと優しさを体現したできた、もの凄く立派な男でなければ不可能です。

 

自分にできるかと問われれば、到底自信がありません。戦友を見捨てず、若い女性とおなかの赤ちゃんを救い、田舎に残した母を思いながら異国で生き抜きサイゴン経由の船便で終戦後に帰国。

 

しかも、この二つのエピソードは決して自らの口で人に語られた訳ではありません。家人にも…。
衰弱した戦友を見捨てなかった話は助けられた人が自叙伝を発刊してから判明したことです。

 

身重の若い女性に席を譲った話も、吉田氏が若くして不慮の事故で亡くなった時、職場の同僚らが遺品を整理している中で判明した事です。

 

助けられた女性は吉田氏が眠るお墓地にお参りした後、事の顛末を家人に泣きながら伝えたそうです。このことをもってしても、どれだけ心の広い人であったかが伺われます。奥ゆかしいのを通り越して神々しい。

 

復員後は出身地、徳島県美馬市の県立高校の教員となる傍ら、重量挙げの選手として全日本選手権のライトヘビー級(82・5キロ)を50年から6連覇を達成。

 

身長1メートル84、体重85キロで筋骨隆々の偉丈夫。戦前に生まれ育って、これだけの立派な体格をしている人を他には存じ上げません。

 

県立穴吹高校で、重量挙げ部、レスリング部、柔道部を作り、三つの部を武道部にまとめ上げ、オリンピック選手を育て上げる。日本大学を戦前に卒業していた吉田は当時、現役の重量挙げ選手。

 

徳島と東京を頻繁に行き来している折に、長崎の平和記念像を制作した彫刻家・北村西望(1884~1987)のアトリエでモデルを務めたとのこと。教え子が作った文集「せんとうはん」(2003年刊)に証言があるそうです。

 

先頭」と書いて「せんとうはん」→何事も1番でなければ気が済まない、吉田氏の性格を表した郷里の方言、あだ名だそうです。立派な教育者だったのでしょう。

長崎原爆の日!平和記念像のモデルとされる吉田廣一(陸軍大尉)の人物像について!~まとめ

読売新聞の記事を読んで、日本人としての誇りを感じましたね。そして不明を心底恥じました。

 

軍人はただ威張ってばかりとのイメージでした。
しかし、戦場を何度も生き抜き、強さに溢れた人でありながら、決して優しさを忘れない。

 

あの狂気じみた時代に人間性(愛)を失なっていない。
中々と言うより、まずできることではありませんね。

 

ともすれば時代に迎合し、自分が生き残るために人を踏みつけて恥じない。
それとは真逆の稀有な人です。本当に立派な人ですね。

 

次女の方は声を上げて叱られた記憶がないそうです。
北村西望は記念像の台座裏に「山の如き聖哲 それは逞しい男性の健康美」と遺しています。

 

平和記念像には、吉田廣一(陸軍大尉)の魂が宿っていることを信じますね。
一度は読むに値する記事です。

 

日本人!→この言葉の響き!
今一度、胸を張って生きれるなと思いました。

 

あの狂った時代に、これだけ稀有な精神と肉体を兼ね備えた大丈夫を輩出できた奇跡を信じたい。何が彼をして、ここまで一本筋の通った男に仕立て上げたのか。まさに奇跡かと…。

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