老々介護の果て、息子と娘の涙、姪の涙を見て、初めて母が逝ったことを実感する

   

平成30年10月12日(金)、午後5時2分頃母が亡くなった。死亡診断書の記載は、その時間だった。入所していた特別養護老人ホームの担当者から直前に電話があり、母の容態がおかしい、すぐに来てほしいとの連絡が入ったが、どういう訳か、私はタクシーにも乗らずに急ぎ足で特養に向かった。

 

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死に目に間に合わなかった

 

私が、特養に到着したのは5時10分頃だった。痩せこけた母の死に顔を見ても全然涙は出なかった。タクシーに乗らなかったのも後悔してはいなかった。母の死は何日も前から予感し覚悟していたから、特段何らの感情も湧かなかった。遠からず迎えが来ることを確信していたし・・・

 

亡くなった母に呼び掛けることもしなかった。ただ、ボーッと突っ立って、冷たくなった母の額に手の平を押し当てて、この瞬間をどうやり過ごすればいいのか、途方に暮れていた。

 

若い職員が涙ぐみながら、母の死の間際を話してくれるのを、ただ黙って頷いて聞いているだけだった。私には若い職員の方々が母の死に涙してくれるのが、不思議でならなかった。私は泣けない。薄情なのだろうか?

 

母の死に際に3人の職員の方が付いてくれていたと聞き、「死の瞬間は寂しくはなかっただろう」と素直に感謝の言葉を伝えた。

 

彼らが義理で泣いているのでない事は良く感じ取れた。しかし、他人の母の死をなぜ、こんなに悲しめるのか・・・私には、どうもピンと来なかった。やはり薄情なのだろうか?

 

特養に入所して1年と1ヶ月!10月に入ってすぐ、担当医と関係各部署の人達と向き合い、死に直面しても特別な延命治療を行わない事を確認し合い、書面を交わしていた。

 

母からも二言目には、「早くあの世へ逝きたい」「生きていての仕方がない」と言うのを耳にたこが出来る程、聞かされていたから、何かあっても延命治療はしない事を本人に承知させていた。母も延命治療は望んでいなかった。

 

腎臓はステージ5の段階に入っており、若ければ人工透析しなければ生きられない。そんな状況になっていた。何時尿毒症になってもおかしくない。そして、何よりも油断していると胸に血が溜まり苦しみだす。それで2回も入院していた。

 

原因は分からない。とにかく歩くと胸に血が溜まりやすくなるので、晩年はほとんど歩いていなかった。筋肉は痩せ細り一人ではトイレにも行けなくなっていた。96歳だ!もう何が起きても不思議はない状態だった。

KODAK Digital Still Camer

2年前に左大腿骨骨折

 

これが致命的なきっかけだった。この骨折以来、1年半の間に9回も入退院を繰り返した。介護度も1~2から3に上がり、最後になってやっと特養に入れた。しかし、人工透析をしていたら入所はさせてもらえなかっただろう。

 

入院するたびに精神科の医師に呼ばれた。あまり「死にたい。死にたい」と口にするので老人性うつ病を疑われる。そのたびに、私が「それは、もう母の口癖です。言っても治らない。ただ、人の手を煩わし生きているのが不本意なのでしょう」としか伝えられなかった。

 

長生きしても母の様に不健康なら、これはもう不幸以外の何物でもない。特に、若い人の手を煩わすのを母は気に病んでいた。「生きていても仕方がない」と何度聞かされたことか?・・・数えきれない。

 

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88歳の時、突如認知症を発症

 

埼玉の田舎に一人暮らししていた母は8年前に認知症を発症した。軽い脱水症状を起こしただけなのに、長期入院していた弊害が拘禁症状の発作を引き起こしたらしい。

 

突如、真夜中に病院中に響き渡る声で喚き散らし始め「這ってでも家に帰る」と騒ぎだしたらしい。当然、朝一で私が病院から呼び出され、すぐに退院させてほしいと要求された。要は病院を追い出されたのだ。

 

60歳になり、定年退職というよりリーマンショックから会社が業績悪化し、リストラに近い形で退職させられていた私しか面倒を見るものがいない。妻はフルタイムで働いている。

 

兄は連れ合いの母を引き取って面倒を見ている。
私しか介護の担い手はいないのだ。

 

母を田舎の自宅に連れ帰り、身の周りの世話をし始めたのだが、夜中に通帳と印鑑を隠しまわり最後には何処に隠したか、分からなくなる。

朝になると「私の通帳と印鑑が見つからないのだけど、あんた知らないかい?」と聞いてくる。

 

夜中にごそごそと動き回るためうるさくて、又何度も電気を照けたり消したりするので、明るくなったり暗くなったりで、私は極度の不眠症に陥ってしまった。全く一睡も出来ない日々が続いた。

 

疲れは全然取れずに朝になると、母の食事や洗濯、掃除をしなければならないので、すぐに疲労困憊になった。朝から人を泥棒扱いして、母は責め立てて来る。

 

適当にあしらっていたのだが、ある朝一番で「お前のカバンの中を見せろ」と迫って来た。とうとう堪忍袋の緒が切れてカバンを母に叩きつけ、「ここのどこにお前の通帳がある?よく見て見ろ!このバカ野郎!」と怒鳴った事があった。

 

一睡も出来ずに朝を迎えた私は我慢の限界を超えていた。憮然とした表情で睨み返してくるので口をひねり上げてやった。その時から母は私に殴られたと言い立てた。

 

息子の涙、娘の涙・・・そして姪の涙

 

色々とあった。しかし、やれる事は全部やった。後悔など・・・

妻の力を借りた。これが一番助けになった。私一人では到底乗り越えられなかっただろう。強引に東京に連れ戻した後は、町会長さんや近所の「見守り隊」の人にまで世話になった。

 

ホントに色々とあった。この8~9年間は・・・
母の死を目の前にしても涙は出なかった。やるだけの事はやった。何ら恥じる処はないと信じていた。

 

私は強気だった。しかし、翌日になり娘が母の遺体を見て泣いた時、私は激しく後悔した。午後になり姪が来て母の姿を見て、やはり泣いた。私も思わずもらい泣きしそうになった。しかし、グッと堪えた。告別式の時は息子が泣いた。これはこたえた。

 

始めて、私は母の死を実感出来た。涙が溢れた。そう、母は孫達を可愛がってくれたのだ。埼玉の田舎から、イチゴやトマトやきゅうりを背中一杯にしょって運んで来てくれたのだ。腰をかがめて必死になって・・・届けてくれたのだ。
碌に感謝の言葉をかけていない。母はもういない。

 

何でもっと優しい言葉をかけてやれなかったのだろう。碌に口も利かずに・・・私は母を完全に無視していた。今、激しく後悔している。あんなに、母は孫達を可愛がってくれたのだ。

 

私も可愛がってもらったのだ。大学まで出してもらい、卒業後、何年も働きもせず司法試験を受験していた。ただただ、甘やかされて育ててもらったのだ。

 

今は、もう祈るしかない。心の中で詫びるしかない。納骨式を済ませ、希望通り28年前に亡くなった父の墓に一緒に葬って上げるしかないのだ。今、この記事を書きながら目から汗が・・・遅すぎたか?何もかも・・・合掌!鎮魂!

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