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小松政夫さんを偲ぶ!2人のおやじの秘話&60年間無事故無違反だったのは本当の話?

 
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残念だなぁ~、ホント一番好きなコメディアンでした。ドリフターズも志村けんも面白かったけど、この人のお笑いは他の人と少々違っていた感じがしていました。笑いの底にいつもペーソスが流れていて、笑い転げている内にホロっと来て、最後は泣きながら笑って見ているというパターンで。絶妙な間合いのトークが大好きで、特に、付き人時代の植木等さんとの逸話は秀逸そのもの。植木さんの人柄を彷彿とさせる語り口が何とも、絶妙で…しばらく見ていないと思っていたら、亡くなっていましたかぁ…もう、見れないか…伊東四朗さんも、きっと驚いたろうなぁ~、昭和がまた一つ遠くなった。ご冥福をお祈りいたします。合掌!

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小松政夫さんを偲ぶ!2人のおやじの秘話…

あの愛されるキャラクターはどうして生まれたのか。小松氏のプロフィールを辿ってみると、実に多くの人からの愛情に恵まれて育ったことが分かります。そうです。この人の顔自体が「泣き笑いの顔」なのです。笑いながら泣く。泣きながら笑う。喜劇の原点かと。

目じりの下がった所が何とも言えない人情味あふれた感じの人です。でも、「し〜らけど〜りと〜んでゆ〜く」…「電線音頭」の印象が何とも強烈で…ややもすると…

「小松の親分さん」や「しらけ鳥」のネタや歌で昭和の人気コメディアンとして活躍した俳優の小松政夫(こまつ・まさお、本名・松崎 雅臣=まつざき・まさおみ)さんが7日午前6時51分、肝細胞がんのため都内の病院で死去した。78歳。福岡県出身。通夜は10日に、葬儀・告別式は11日に家族らで執り行った。喪主は妻・朋子(ともこ)さん

そうですか。ガンだったんですか。知らなかった。いくらお笑いでもガンには勝てないよな。

小松さんは昨年11月の定期健診で肝細胞が見つかり、入退院を繰り返し、抗がん剤治療を受けながら仕事も続行。俳優としてドラマなどに出演する一方、ラジオ番組などで軽妙なトークを披露。今年11月14日に再入院。容体が回復せず、最期は家族に看取られながら息を引き取ったという。

小松政夫(こまつ まさお) プロフィール

誕生 1942年(昭和17年)1月10日生まれ 78歳  2020年12月7日没

職業 日本のコメディアン、タレント、俳優、声優。社団法人日本喜劇人協会会長(第10代)

本名 松崎 雅臣(まつざき まさおみ) 165㎝

福岡県福岡市瓦町(現:博多区上川端町)出身

愛称 親分さん小松の親分(自らのコントから)、小松与太八左エ門

所属 事務所は有限会社ドン・タック、プロデューサーハウスあ・うんとスケジュール窓口で業務提携

 

博多の繁華街で菓子店を経営する両親のもと、7人兄弟の5番目としてわんぱくに育った小松。第二次世界大戦後の少年時代、「焼け跡にはバナナ、蛇の薬、十徳ナイフのたたき売りが軒を連ねていてね。その口上も面白くて、全部覚えて『雅坊(自身の愛称)の演芸会』をやった。それが今につながった」と断言しつつ感謝している。

 

平和が訪れた街の熱気と機知あふれる人々が小松の観察眼を育てたという。役者の原点を育んだおおらかな博多の風土と厳しくも懐が深かった“2人のおやじ”との秘話を語り尽くします。

 

料理学校の教師から実業家に転身した父は厳格だったらしい。「食事のとき、嫌いなニンジンをはじけば『何してる!』って、象牙の箸で額をバシーンと叩く。俺も泣けばいいのに『いてぇな、いてぇな』ってふざけるもんだからまたバシーン。

 

額から血が落ちたご飯を『辛子明太子みたいになっておいしくなった』ってちゃかして、またバシーン!」と持ちギャグ「いてぇな」の爆笑秘話を明かしていました。笑える。しかし、額から血が出るまで叩くとは…酷えおやじ!これが一人目の本当の親父(おやじ)

 

生粋の九州男児だった父は、小松が13歳のときに結核で他界。一転、母さえ知らなかった借金で自宅は人手に渡り、生計を助けるため夜間の高校に通いながら昼間は和菓子店で働いたんだとか。

 

「高校を卒業するとき、店の社長のお母さんに、東京で役者になるので前借りできませんかって頼んだら、『そういうのは前借りじゃなくてお餞別というのよ』って、100円札で1万円分持たせてくれた」。ラーメンが30円の時代に感謝してもしきれないほどの愛情をもらったのだった。

 

今の時代なら、いくらになるのだろうか。20万円いや30万円にはなろうか。博多の人情味溢れる話、これも泣かせる。この辺からも小松の人柄が伝わって来る。この餞別で横浜に住む兄の元へ行ったのかなぁ~。

 

福岡の県立「福岡高校」卒業後、地元放送局の劇団に所属。61年(19歳)の時に俳優を目指して上京。その後は多くの職業を経験して、18歳で車の販売員になり、会社員の月給が1万4000円の時代に15万円を稼ぐまでになったという。それでも役者への夢は忘れられなかったらしい。

 

車の運転は17歳からしていたと聞いていましたが…下が2人目のおやじ・植木氏との出会い。

さまざまなアルバイトを経験した後、自動車のセールスマンに。敏腕セールスマンとして高収入を得ていたが、雑誌の片隅に出ていた植木等さんの「付き人募集」を見て応募し、64年1月から付き人兼運転手となった。➡これが俳優を目指して上京したはずの小松が、育ての親「クレイジーキャッツ」の植木等さんに出会ったきっかけ。付き人兼運転手に出世(?)➡22歳

面接日には急な仕事が入って2時間遅刻したものの、途中で必死に電話をしながら駆け付け、応募者600人から採用が決まったという。当時を振り返り、「ハタチそこそこでしたが、英国製のスーツに髪もセットしていたから、キチンとしていると思われたのでしょう。あと車の運転ができたことでしょうね」と照れまくっていたとか。

付き人になることが決まり、当時体調を崩して入院中だった植木さんのもとへあいさつに行くと「『私を父親だと思えばいい』と。おやじさんと呼べばいいでしょうか、と言うと“ハイ、それまでよ”のポーズで『それでいこう。先生と呼んだら倒すぞ』って…。この人に生涯ついていこうと思いました」としみじみ感謝。

その4カ月後、著名人のゴルフコンペで小松を参加者に紹介した植木さんは「大物になりますからお見知りおきを」とほほえんでくれた。一緒にそば店に立ち寄れば、遠慮してかけそばしか頼まない小松を気遣い、天丼とカツ丼を注文して「医者から脂っこいものを止められていたんだ。食べてくれ」とどんぶりを差し出した。

植木さんの家に行っては、酒を一滴も飲めない植木さんから舶来者の高級ウイスキーをくすねては一人で酔いつぶれていたという笑える話。「与えた恩は水に流せ、受けた恩は石に刻め」の言葉通りの人だった」と懐かしむ。

 

68年、26歳の時、日本テレビ系「シャボン玉ホリデー」のレギュラーで芸能界デビュー。76年「デンセンマンの電線音頭」、77年「しらけ鳥音頭」などで一世を風靡。2011年に日本喜劇人協会会長に就任。自伝的小説「のぼせもん」はNHKで「植木等とのぼせもん」としてドラマ化された。

 

植木等さんの人柄を偲ばせるエピソードを忘れられない。ある日、いつもの様に植木さんを乗せて運転していたら、植木氏が「おい、明日からもう来なくていいぞ!」と急に小松に言ったという。訳を聞くと芸能界にデビューできるように番組出演を決めてきたという話だった。

 

小松は「おやじさん、車をそこに止めていいですか」と言って、ハンドルに突っ伏してひとしきり泣いたという。植木さんは、その間何も話さなかったそうだ。植木氏の思いやりが伝わってくる。この師匠にして、この弟子ありか。生まれついてのキャラクターがあるにせよ、小松はやはり人に恵まれていた。愛されるキャラ。

60年間無事故無違反だったのは本当の話?

「あんたはえらい!」「どーかひとつ」など、数々の名ギャグで知られる俳優でコメディアン・小松政夫が、60年間無事故無違反の優秀なドライバーだったことは有名な話。

 

しかし、本当は接触事故を起こしていたことがわかった。今年の6月11日午後のことらしい。小松がハンドルを握る自家用車が接触事故を起こしたのだ。小松の知人が語っている。

「1人で運転して出かけ、近所にある眼鏡店に立ち寄った帰りのことだったそうです。現場は見通しの悪い、市街地の狭い道路。交差点で一時停止した後に発進させたところ、右からきた車と接触しました」(小松を知る関係者)

幸い、小松に怪我はなく、車にも目立つ傷はつかなかったという。

「コメディアンになる前、小松さんはトヨタ系列の自動車販売会社で働いていて、トップの成績を上げるセールスマンでした。その後、芸能の道に入ってからも、植木等さんの付き人として4年間、植木さんの送迎車の運転を任されていたほど、ドライビングテクニックには自信があったんです」(芸能関係者)

小松の妻が続ける。

「今回の事故では、夫は標識を見落としてもいないし、一時停止もしてルールは守っていたそうです。夫は『相手が急に出てきたから』と話していました。とにかく、お互い怪我もなく、物損だけだったのは幸いでした。

夫自身、これまで運転時に衰えを感じることはなかったと思います。ただ、ちょっと疲れていたのはあったかもしれません」

高齢者の事故は、自宅から比較的近くの運転し慣れた道で起こることが多いことが特徴らしい。実際、小松の事故も自宅の近所で起きた。

 

「まだ仕事が続いているのですぐではありませんが、年内には免許を返納する予定なんです」(小松の妻)と語っていた矢先の事故だったらしい。

運転に自信がある人ほど、高齢になってもなかなか免許返納を決断できるものではない。70代以上の免許保有者数はこの1年間で7%も増加した。小松の決断を見習い、少しでも運転に不安を覚えた人は、返納を検討すべきだろう。

この辺の笑えない話の詳細は後日、まとめて追記しておきます。

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小松政夫さん逝去!2人のおやじは誰と誰&60年間無事故無…まとめ

人気コント番組でコンビを組み、「小松の親分さん」「電線音頭」などのギャグでともに一時代を築いた“相方”の俳優、伊東四朗(83)と生前は何度も連絡を取る間柄。伊東は突然の小松の訃報に、きっと驚いたことだろう。絶句したと聞くが…。

あるとき、伊東に「いくつまで(現役を)やるんです?」と聞くと、「脳トレしながら頑張ってみようと思う」と言われたことを告白。晩年は舞台ざんまいだった小松は「そういう時期までやれるか分からないけど、せりふが覚えられなくなったら、とっとと退散しなきゃいけない」と伊東の気合と引き際の美学を胸に役者道を探求し続けていたらしい。

 

愛されるキャラクターだったこと、ゆえに多くの人に愛された人だったことは間違いない。それが本人の努力とも相まって独特の雰囲気を醸し出していたように思います。植木さんとの師弟愛、ホント何度聞いてもホロっときたもの。心に染み入る優しさ。

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