8月15日は何の日?なぜ終戦記念日・進駐軍なのか?戦災孤児は?

      2019/08/14

日本の為政者は日本語の綾というか、曖昧さを包み込む言葉を見つけ出すのに才長けているように思える。都合の悪いことを国民に向かって説明する時には、うまくオブラートに包んだ言葉や表現に変えてしまい、抵抗感を失くし、統治をやりやすくしている。言葉を置き換えてしまうことで、どれだけ史実が歪められ、事の本質が覆い隠されてきたか、測り知れない様に思う。

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8月15日は何の日?なぜ終戦記念日?

1945年8月15日、日本では一般に【終戦記念日】と言われる。なぜか、【敗戦記念日】とは言わない。日本国民もあえて異議を唱えない。
なぜなのか?この従順さはどこに由来しているのだろう。しかも、終戦記念日という事さえ知らぬ若者が増えているという。信じられない。

 

1945年8月15日、当時唯一の放送局だった社団法人日本放送協会から、昭和天皇による「戦争終結の詔書」が朗読放送(玉音放送)され、この放送で国民は、太平洋戦争における日本の敗戦を知ることになります。

 

1945(昭和20)年8月14日、政府はポツダム宣言を受諾。翌15日の正午、昭和天皇による玉音放送によって日本が無条件降伏したことが国民に伝えられ、第二次世界大戦が終結。

【動画】終戦を知らせる『玉音放送』  放送中に録画された貴重な映像が公開

このサイトは、終戦を知らせる「玉音放送」中に録画された貴重な映像が公開されています。
必見の価値ありと思います。しかし、本当に何人の日本人が玉音放送の意味を理解していたのでしょうか?

当時の日本では、大半の人達が尋常高等小学校卒だったはずです。
「・・・耐えがたきを耐え、忍び難きを忍び・・・以て万世のために太平を開かんと欲す。」などと、こんな難しい言葉遣いをあの時の放送でどれだけの人が理解できたのでしょうか?

 

大多数は周りの雰囲気につられて、ひれ伏して泣いていただけなのでは?
ほとんどの日本人が聞き取り辛く、かつ難しい言葉遣いの玉音放送をどこまで分かっていたのかは、かなり疑問です。

 

又、内務省の発表によれば、戦死者は約212万人、空襲による死者は約24万人だったという。
1982年4月の閣議決定では、8月15日を『戦歿者を追悼し平和を祈念する日』としたが・・・。

 

あえて『敗戦記念日』ではなく『終戦記念日』と呼称した意味は何なのか?
そして、8月15日を『戦歿者を追悼し平和を祈念する日』とするだけで良いのか?

 

8月15は、間違いなく『終戦記念日』ではなく『敗戦記念日』である。
アメリカ軍は『進駐軍』でなく『占領軍』。昔から感じていたこの違和感!如何ともし難い。

 

第一、 内務省の発表した戦死者等の数字は、本当に正確な数字なのでしょうか?
1945年3月10日深夜の『東京大空襲』では10万人以上の人が犠牲になったと言われています。
正確な数字が出せないというなら、戦後、正確な数字を求めて、どれだけ政府は動いたのか?

 

8月6日に、広島に投下された原子爆弾で何十万人の人が亡くなったのか?
10万人?20万人?いや、正確な数字が分かっていない。では戦後、どれだけの調査をしたのか?

 

8月9日に、長崎に投下された原子爆弾では何万人が亡くなったのか?
当時の長崎市の人口が25万人と伝えられているが、それが15万人に減ったとも言われている。
では、10万人の方々が犠牲になられたのか?それも分かっていない。正確に調べられていない。

 

単純計算で控えめに計算しても、この三つの戦禍だけで30万人以上になるはず!
内務省の発表した数字は低過ぎやしないか?その意図するところは、一体何なのか?

 

戦死者が212万人だって!?少な過ぎるでしょう。
軍人、軍属、一般市民まで含めると、一説では300万人以上が犠牲になったと囁かれている。

 

なぜ、数字が不正確なのか?誤魔化そうとしているのか?それが分からない。
日本は、戦後、軍隊を持たず高度経済成長を突っ走り、世界第二位の経済大国にまでなった。

 

この間に失われた日本人の神髄というか、戦前の日本人が矜持として保っていた精神性まで失くしてしまったのではないか?
一方で、外国で亡くなった軍人や一般人の遺骨収集などは、あまりに無関心過ぎたのでは?

 

シベリア抑留で亡くなった方々の遺骨は、一体何万体ぐらい収集できたのか?
「史上最悪の作戦」と呼ばれたインドへの侵攻:『死のインパール作戦』は4ヵ月も続けられた。

 

約9万人の兵力が投入され、戦死約2.6万人、戦病3万人以上、行方不明者は何万人に昇るのか?戦病者のほとんどは生還していない。
戦後、慰霊式と平和資料館が現地に設立されたと聞くが、本当にこれだけで良かったのか?

 

亡くなった軍人たちの遺骨は、どこまで収集できたのか?
作戦を指揮した責任者の牟田口廉也中将を戦後、日本人自らの手で裁いたのか?

牟田口 廉也(むたぐち れんや)の罪

1888年(明治21年)10月7日生まれ、1966年(昭和41年)8月2日没。享年77歳。日本の陸軍軍人。最終階級は中将。盧溝橋事件や、太平洋戦争(大東亜戦争)開戦時のマレー作戦や同戦争中のインパール作戦において部隊を指揮した人物。

牟田口は戦後、東京都調布市で余生を過ごした。しばらくの間はインパール作戦に対する反省の弁を述べ、1960年(昭和35年)頃まで、敗戦の責任を強く感じて公式の席を遠慮し続けながら生活をしていた。

しかし、1962年(昭和37年)にアーサー・バーカー元イギリス軍中佐からインパール作戦成功の可能性に言及した書簡を受け取ったことを契機に、自己弁護活動を行うようになり、死去までの約4年間はインパール作戦失敗の責任を問われると戦時中と同様、「あれは私のせいではなく、部下の無能さのせいで失敗した」と頑なに自説を主張していたという。

 

同様の主張は、多くの機会で繰り返されたという。恥を知る人間の所業とは思えない。
1966年(昭和41年)8月に死去。兵士たちへの謝罪の言葉は死ぬまで無かったという。
8月4日に行われた自らの葬儀においても、遺言により自説を記したパンフレットを参列者に対して配布させたという。呆れた男である。墓所は多磨霊園。

 

この男を日本政府は断罪しようともしていない。日本人を何万人殺した戦犯なのか?
もっともA級戦犯だった岸信介が減刑され、政界に復帰できたぐらいだから、どこまでもアメリカに都合の良いように日本と日本人が扱われて来たのかは、一目瞭然だ。

 

このままで良いのだろうか?甚だ疑問だ。
戦犯の処理はGHQの独断と偏見だけで終わらせ、日本人自らの手で裁いていない。

 

何もかも曖昧なままで済ませている。
そして、遺族の高齢化は急速に進んでいる。
もう外国へ遺骨収集に行ける歳ではあるまい。

 

第二次世界大戦後の極東国際軍事裁判で文官としては唯一のA級戦犯として有罪判決を受け死刑となった「廣田 弘毅」氏の名誉は回復されたのか?   皆目、分からない。政府の取る行動が・・・。なぜ、彼が死なねばならなかったのか?どうみても筋違いではないか!

後、一体何十万人の日本人の遺骨が海外に埋まっているのか?
収集できる目途は立っているのか?

 

放置したままで良いのか?
こんな国が他にあるのか?

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各国における終戦記念日の違い~その意味するものは?

各国における第二次世界大戦の終結(終戦)を記念する日については異なっている。
恐らく8月15日を終戦記念日にしているのは、日本だけではないのか?

対日戦勝記念日とされる場合、通常は、大日本帝国政府が公式にポツダム宣言受諾による降伏文書に調印した1945年9月2日を指すことが多い。
この認識のズレは大きいのではないか?

 

アメリカ合衆国、イギリス、フランス、カナダ、ロシアでは、9月2日を対日勝戦記念日(英語版:Victory over Japan Day)と呼んでいる。      当時のアメリカ合衆国大統領トルーマンは、降伏文書に調印した9月2日を「V-J Day」として宣言した。

 

この日は東京湾上のアメリカ戦艦ミズーリにおいて、日本側を代表して重光葵外相、梅津美治郎参謀総長、連合国を代表して連合国最高司令官のマッカーサー元帥が署名した。

アメリカ合衆国では1995年9月2日に、対日戦勝50周年を記念して、記念切手が発行されたぐらいだ。ただし、州レベルでは8月14日や8月15日とされることも多いと聞く。

 

各国では9月2日に、銀貨を発行したり、式典を行ったりしている。
ロシアに至っては、2010年、9月2日を「第二次世界大戦終結記念日」に指定。この他、独ソ戦の終結日である5月9日を「大祖国戦争終結記念日」(祝日)に指定している。

 

旧ソ連から政権を受け継いだロシア連邦共和国議会が、9月2日を「第二次世界大戦が終結した日」と制定する法案を可決。第二次世界大戦を連合国として戦った国とアピールすると同時に対日戦で行なった戦争行為を帳消しとし、北方領土の実効支配を正当化できるという計算があったと考えられる。

 

この辺の認識がないと、北方領土の返還交渉など絵にかいた餅に終わる可能性が高い。
ソ連の対日宣戦布告が8月8日。ポツダム宣言後、日本が降伏すると分かっていて侵攻作戦を開始した。悪質だ。

 

しかし、アメリカが、8月6日広島市と8月9日長崎市に原爆を投下したのも、ソ連の侵攻と無関係の訳がない。ソ連参戦で日本が降伏した訳ではない。飽くまでアメリカの力で日本が降伏したと内外に知らしめるための悪魔の所業だ。許される行為ではない。

 

中華人民共和国と中華民国(台湾)では、旧ソ連と同じく、9月3日を「軍人節」や「抗日戦争勝利の日」としている。2005年9月3日、北京の人民大会堂で抗日戦争勝利60周年記念式典が開かれた。

 

日本政府は、8月15日を「戦没者を追悼し平和を祈念する日」とし、全国戦没者追悼式を主催している。一般にも同日は終戦記念日や終戦の日と称され、政治団体・非営利団体(NPO)等による平和集会が開かれている。

 

1963(昭和38)年から毎年、政府主催による「全国戦没者追悼式」が行われ、正午から1分間、黙祷が捧げられる。
高校野球でも、正午の時報直前にプレーを中断し、選手・観客らが1分間の黙祷を捧げる。
こんな行為だけで贖罪されるのか。

 

こんな曖昧なままで、終えて良かったのか?
明確に「敗戦」だ。

 

終戦と敢えて言葉を置き換え、責任の所在を明らかにしない。
突き詰めて行けば天皇制度にまで至る可能性が無きにしも非ず。
だから、やらない。戦争犯罪人を追及しない。
日本人自らの手で裁こうとはしないのか。

なぜ、進駐軍なのか?

1945年8月の終戦後、日本を占領した連合国軍を指す。
米軍が主体で、米元帥のダグラス・マッカーサーが最高司令官となり、連合国軍総司令部(GHQ)は東京に置かれた。進駐軍とは他国に進駐している軍隊のこと。なぜ、占領軍でなく、一般的には進駐軍と呼ばれるのか?

52年4月のサンフランシスコ講和条約発効により日本が主権を回復し、進駐が終了する。京都には米軍が駐留した。言葉を置き換えたのは明白だ。   占領されているという感覚を薄めるためだ。an army of occupation」:第一義的には「占領軍」と訳される。進駐軍と訳されるのは、かなり日本独自ではないのか?

 

一部にはイギリス連邦軍の参加があったが,実質的には日本占領にあたったのはアメリカ軍であった。この〈占領軍〉は〈進駐軍〉とも呼ばれた。なぜか、占領軍と呼ばれることは敢えて避けた。

 

また46年2月から,連合国の対日占領の最高機関として11ヵ国(1949年以降は13ヵ国)からなる極東委員会がワシントンに設けられ,さらに東京に最高司令官の諮問機関として米英中ソの4ヵ国からなる対日理事会が設けられた。

 

しかし、いずれもその権限は形式的で,実質的にはアメリカの単独占領であり,アメリカの対日占領政策が占領政策を左右した。

 

52年にアメリカの占領が終わった時、呼び方を変えるべきではなかったのか?
なぜ、これほどまでにアメリカに迎合したのか、また迎合し続けるのか。

 

日米対戦で兵力、装備、資源と全てにおいて優っていた超大国アメリカ相手に日本軍と日本人は果敢に、そして徹底的に戦った。特攻作戦は米軍に恐怖心まで抱かせた。

 

酷い作戦だった、残酷極まりない作戦だったと思うのだが、「万歳突撃」「神風特攻」まで行ったのは、古今東西、世界中探しても日本以外にはなかったのでは?

 

単純に批判出来ない。
あそこまで追い詰められれば、何処の国だって戦争を起こすのではないか?

 

所詮、遅れてきた国通しの植民地獲得戦争だった訳で、資源のない日本が鉄や石油という軍備に最低限、必要な輸入をストップされれば海外に侵略せざるを得ない。

 

戦争になるように、徹底的に追い込んできたのはアメリカの方ではないか。
結果的に、真珠湾攻撃が宣戦布告なき卑怯な不意打ちに終わってしまったが、2発も広島、長崎に原爆を投下した「アメリカの悪魔の所業」は断じて同次元には語れるものではないし、許されるものではない。

 

1945年3月10日、無差別に東京を約300機のB-29が低空飛行で飛来し、何万トンと焼夷弾をばら撒き、10万人以上の無辜な市民を焼殺した。ベトナムのナパーム弾に繋がる慈悲無き行為だ。人種差別に繋がる思想だ。

戦災孤児は?

2019年、3月9日TBSテレビ「終戦SP」を見ていて、正直驚いた。

この年になっても、まだ知らない事があったかと・・・。
1945年3月10日の「東京大空襲」のとき、なぜ多くの子供が亡くなったのか?
小学生は、皆学童疎開していたはずだ。

 

しかし、現実には3月10日の空襲で、多くの小学6年生が死んだと報道されていた。
国家総動員法が発動されていたこの時期は、中学生になると勤労学徒として、各地の工場に派遣され、貴重な戦力として扱われていたのだ。

 

その勤労学徒生になるために、3月9日に小学校の卒業式が多く行われ、4~5万人の小学6年生が東京に疎開先から戻っていたというのだ。

 

これで腑に落ちた。
戦後、上野の地下道に、あれほど多くの戦災孤児が集まっていたのが・・・。

あの子供たちは、全国から飢えから逃れるために集まって来ていたのか!?
それをGHQの指示とは言え、容赦のない狩り込みを行い、12.3万人の子供が施設に収容されたという。
鉄格子の中、一畳に3人位が押し込まれる程の酷さ。

 

都が開設した「養育院」
しかし、食べるものがない。

子供は食を求めて町に脱走する。
タバコ拾い、闇屋の手伝い、露天の手伝い、果ては物乞い。
ハスっこい子は盗みに走る。

 

GHQの指示で、竹格子の柵を作っても、脱走する子供が後を絶たない。
なぜなら、看視している警官が、子供の分の米の配給を横取りしていたというのだから驚かされた。
誰もが生きるのに必死だった時代とは言え、これは惨すぎる。

 

今の北朝鮮を笑えない。
さらに、これほど戦災孤児の救済が遅れた原因の最大のものが、京都舞鶴港などに中国やシベリアからの引揚者増大だと事実にも驚かされた。
命からがら、やっと日本に帰国した引揚者の数は約630万人だという。
凄まじい数だ。

 

当時の日本国の人口が7400万人ぐらいと聞いている。
その1割近い人の数が一気に引き上げて来たのだ。

 

ただでさえ、食糧難だ。
それに拍車をかけたのが630万人という引揚者だ。

 

しかし、シベリアなどに抑留されても帰国できた人は、まだ幸せな方だろう。
シベリア抑留で命を落とした日本人は一体、何万人なのか・・・。

 

満蒙開拓団で中国に入植し、ソ連の侵攻から逃れるために過酷な逃避行で命を落とした人の数も相当なものだろう。
途中の大河を渡れず、溺れ死んだ女性、子供、老人は何百、何千人だろうか?

 

テレビを観ているだけで、自分の無知が恥ずかしくなった。
見終わって、暫く椅子から立ち上がれなかった。

 

630万人と12.3万人!
勝負は自ずから決まっている。反省すべき点は多々残されている。

 

何十年経っても忘れてはいけない出来事だ。
もう一度、日本人自らの手で裁くべき歴史的事実だと思う。

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