認知症を発症した母を連れて東京に戻ってからも、本当には母から解放された訳ではなかった。連れ戻した結果、これから6か月間は散々母に振り回される羽目になった。
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この時はまだ、細かい事まで気が回らなかった。
とにかく早く東京に戻りたかった。
埼玉の土地を離れたかった。
母の尋常ではない頑固さや強情さには早くから気づいてはいた。
しかし、認知症を発症したときに、露骨に生来の気性の激しさが現れた。
ただただ、負けん気だけで生きて来た。
本来的に人を信じてはいない。
実の息子でさえ、朝一で人を泥棒呼ばわりし、人間不信の極みにいたようだ。
東京に移る、この時でさえ私を本当には信じていなかったと思う。
言い出したら、何と言っても聞かない。その頑固さには呆れさせられた。
その本性に、東京移転後も半年以上は悩まさせられ、翻弄された。
だが、私の頑固さも、気性の激しさも父と母譲りのものだ。
「こんなことでこんなクソ女に負けてたまるもんか」と、その時は思っていた。
しかし、想像以上に母の気性の荒さには呆れさせられた。
この頃の母はもう誰も信じてはいなかった。
誰を見ても泥棒に見えたのだろう。
東京に強引に連れ戻し、何か月経ってからだろうか?少し落ち着いてきたのは?
漸く私の妻のいう事を聞き、通帳や印鑑の管理を任せる様になったのは・・・。
不思議なもので私の妻と兄嫁の事だけは信じていた。
素直に妻の言うことは聞くようになっっていった。
妻は経理事務所に長く勤めていたし、駆け出しの税理士や社労士には負けないぐらい税法の知識があった。
家計のことは安心して任せられた。
そのことはさすがの母も段々思い出してきたようだった。
しかし、東京に連れ戻した頃は、まだ十円玉、百円玉、千円札の数え方を思い出せず、毎晩通帳や印鑑を隠すのに必死に動き回っていた。
それを見ていると、本当に浅ましいと感じた。
「この女の正体は一体何なんだ!?」実母を見て、つくづくそう思わされた。
育ててもらった恩義や感謝の念は、この頃もう吹き飛んでいた。
母に優しく接しようとするのだが、ことごとく逆らってくる。
普段、私も我慢はしているのだが、時としてあまりの小生意気さに思わず、声を荒げてしまう。
以前に、ほっぺたをひねり上げてしまったのは失敗だったが、全く一睡もできず、疲れ切っていた私に到底我慢ができる出来事ではなかった。
根性の悪さはこれが今までの母と同一人物とは到底思えなかった。
いや、これが母の本当の姿なのか?
良く分からない。
認知症になった人の気持ちは今でも分からない。思い出したくもない。
分かっているのはただ一つ!
東京でも、妻や家族、「町会長さん」や「町内の見守り隊」、「隣近所の人たち」や「行政や公的な介護サービス」がなかったら、とてもこの母の面倒は一人で見きれなかっただろうという一点だけだ。
ある程度、行政や公的サービスを知っている積りだったが、こんなに急に認知症が発症したのでは到底、生半可な知識では迅速に対応など出来なかった。
東京でも右往左往しながら、行政や公的サービスを誰彼構わず質問し、有益な情報を集め、結局は人の力を借りることで救われた。
しかし、埼玉の時ほど大変ではなかった。
妻や子供たちがいたので安心して家を空けられたし、介護、福祉関係の申請も埼玉で一度、行っていたから手順は覚えていたし、余裕をもって楽に出来た。
でも、やはり自分一人では到底、こんな気違いのようになった母を支え切れなかったと確信している。
家族の協力、近隣の人達、ケアマネジャー、その他公的なサービス、色々な人々に助けられて何とか乗り切れた。
ホントに必死だった。
この狂った母にどう接していいか、分からなくなる時が多々あった。
周りの支援がなかったら、多分、私は母に暴力をふるっていたかも…。
そのぐらい激しく抵抗してきた。
何度、殴り飛ばしてやろうかと思ったことか!・・・数えきれない!
その衝動を抑えるに必死だった。
生半可な認知証に関する知識だけではとても抑え切れなかった。
周りに助けてくれる人がいて、私の感情が爆発しないで済んだ。
これだけは確かな事だった。
可愛げのない女!
クソ女!…何度、心の中で罵ったか!…実の母親なのに…
憎しみばかりが募った。
怒りの感情を抑えきれない。
爆発しそうになる気持を必死に抑える。
拳を握りしめる。
歯ぎしりが…畜生!…と。