西日本豪雨で大きな被害を受けた広島県呉市天応地区。被災地の復旧を手伝うボランティアの中に、一際目立つ男がいた。赤いつなぎに、「絆」と書かれたヘルメット・・・今年8月に山口県周防大島町で行方不明となった2歳児を発見し、一躍時のひととなったボランティアの尾畠春夫がドキュメンタリー番組「情熱大陸」(MBS製作著作/TBS系全国ネット、9月23日夜11時~11時半)に登場する。何を語るのだろうか?ちょっと想像してみた。
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尾畠春夫が現場に入ると、周りの空気が変わるという
天応地区には、氾濫し流れ込んだ土砂が今なお残ったままの家屋も多いが、率先して床下へもぐり込み、ヘドロとなった土砂を泥まみれになって次々とかき出す。
また、被災者に寄り添うようにして声をかけ要望を聞き出し、仲間たちに作戦を指示する。
時には、経験が浅く動きが硬いボランティアを得意の冗談で和ませる。
さらに毎朝午前9時に始まる一般のボランティア活動の前にも独自の活動を続けていた。
早朝午前6時、たったひとりで向かった現場とは?
ボランティア仲間のひとりはそんな尾畠を「神」のようだといい、取材した被災者も「尾畠がいると、現場が活気づく」とその独特の存在感に驚きを隠せない。
大分県の地元では人気店だった魚屋を65歳で畳んだ尾畠氏。
世の中に恩返しをしたいと今はボランティアにのみ専念する。活動資金は年金収入だけ。お礼は一切受け取らず、節約を心がけ車中泊をしながら全国の被災地を回っている。2011年の東日本大震災の際は、南三陸で500日もわたって活動したという。
番組では被災地での活動に加えて、大分県の自宅も取材。束の間の休息日、バイクで30分走り、無料の露天風呂で疲れを落とす。そんな尾畠のもとには来客が絶えず、中には人生相談をしに訪れる人もいるという。身長161センチ、小柄な体からは絶えず前向きなエネルギーを発し続ける78歳は、一体なぜここまでボランティアに打ち込めるのか? 原動力は何なのか? 密着を続ける中で、「これまで他の取材では話したことがない」という長年、秘めたある思いを口にし始めたという。
1939年大分県生まれ。(78歳)
大分県速見郡日出町在住のボランティア活動家。元鮮魚商。
大分県国頭半島の貧しい家庭に生まれ、幼少時に現在の増す杵築市に引っ越し育つ。
父は下駄職人であったが、履き物がゴム製品に変わる頃で、商売は順調ではなかった。
母は専業主婦であったが、尾畠が小学校5年生時の41歳で他界。母の死は尾畠に大きく影響する。父は酒好きであり、妻の死後何人もの子供を抱え、下駄は売れず厳しい現実から逃れるため、やけ酒に走る。7兄弟の4番目の尾畠は、「大飯喰らいだから」という理由で、一人だけ近所の農家に小学5年生で奉公に出される。
この時、尾畠は「世の中なるようにしかならない。やるだけやってやろう」と心を入れ替え、奉公先の主人や家族を親だと思い、何でも言うことを聞くような生活に入る。
中学校へは4か月しか通えなかった。すべては生きるためだったが、この時の経験が宝になっていると感じるに至り、恨みの対象だった父がいつしか感謝の対象に変わるのを経験したという。
1995年(昭和30年)に中学を卒業するとすぐに姉の紹介で別府の鮮魚店の小僧となる。姉は、働きたいという尾畠に対し「あんたは元気がいいから魚屋になりなさい」といったらしい。
別府駅に向かう際、父から青い10円札を3枚持たされ、珍しく大盤振る舞いだなと喜んだものの、その30円は片道切符代に過ぎないことを知り、帰るという選択肢がないと知る。鮮魚店ではあらの煮つけが出たが、芋とカボチャの日々だった尾畠は、「こんなうまいものはない」と衝撃を受ける。
別府の鮮魚店で3年間修業の後、下関市の鮮魚店で3年間フグの勉強をする。その後、神戸市の鮮魚店で関西流の魚のさばき方やコミュニーケーション術を4年間学ぶ。10年の修業後独立するつもりだったが、給料が安く貯金は0だった。
開業資金を得るために上京し、大田区大森の鳶・土木の会社に「俺には夢があります。3年間どんな仕事でもするので働かせてください」と頼み込み就職するが、この時の鳶と土木工事の経験が、現在のボランティア活動に役立っていると述べている。会社からは、残って頭になれと熱心に誘われるが、1968年(昭和43年)、大分に戻ると4月には結婚。
同年11月には28歳にして別府市内に鮮魚店「魚春」を開業。地元で人気店となる
ここまで、Wikipediaから引用しただけで涙が出そうになった。小学5年生といえば、10歳か、いや11歳か?母親と死別したばかりの時に自分だけ農家に奉公に出されるという現実!自分だったら絶対にひがんでる。父を憎むだろう。「何で自分だけ?」というひがみ根性から道を踏み外したかもしれない。
それをこの人は「世の中なるようにしかならない。やるだけやってやろう」と心を入れ替え奉公先の家族を親と思い、何でも言うことを聞き働きだしたというのだから、心構えが本当に凄い。
自分には絶対に真似出来ない事だと思う。
10歳、11歳で普通こんな悟りの心境に達する事が出来るか?
できないだろう!普通なら出来ない。
中学は4ヶ月しか行けずに働く。
これだって到底我慢出来る事ではない。
そして、この時の経験が宝になっているなどと誰が言えるだろうか?
その後、10年魚屋で働き、開業資金を貯めるため鳶・土木会社で3年間働く。
この時の経験が今のボランティア活動に役立っていると言える人は、まずいないだろう。
大したものだ。本当に頭が下がる思いだ。
1968年に大分に戻り魚屋「魚春」を開業すると、すぐに地元の人気店になったが65歳の時に惜しまれながら閉店し、以後ボランティア活動に専念する。
趣味は40歳からはじめた登山。
妻と48歳の息子、45歳の娘、孫5人。
取材ディレクターに対しても「360度何を撮っても良いよ」とサービス精神旺盛な78歳。
尾畠氏は、山口県周防(すおう)大島町家房で今年の8月12日午前から行方が分からなくなっていた藤本理稀ちゃん(2)を探しに、たった一人で山中に分け入り、20~30分で無事に発見したことから、一躍時の人となった。
3日間行方不明だった幼児を無事発見した尾畠氏は一夜明けた8月16日、自宅で朝日新聞などの取材に応じている。「人の命は地球より重い」と話し、休む間もなく18日には西日本豪雨で被災した広島県呉市に向かったという。
理稀ちゃんは15日午前7時前、不明になった場所の近くの山中にいたそうである。虫に刺されてはいたが怪我はなく、脱水症状が心配されたが受け答えはしっかりとしていて、大事を取り、同県柳井市の病院に検査入院したとの事。
この救出劇で尾畠氏は一時、日本中で話題になった人である。
尾畠さんは以前からスーパーボランティアと呼ばれていたんだとか!この活躍は「もはや神!」「まさに聖人!」と評判になった。
インタビューに答える尾畠氏は、時折涙ぐんだりと本当にいい人なんだな~という感じが良く伝わってきた。
TV番組「ミヤネ屋」のリポーターから奥さんの存在を聞かれると「奥さんは、5年前に用事があって出かけてまだ帰ってこない」と苦笑いして答えていた。神戸市の鮮魚店で4年間、コミュニケーション術を学んだだけの事はある。笑っていいのか、悪いのか返事に困るユーモアがある。
きっと、ボランティアの心得を淡々と語るのだろう。力まずに・・・偉そうにはかたるまい。
行方不明児を見つけた時、その子の祖父が風呂や食事の話をした時も頑として固辞した様に・・・
ボランティアは飽くまで無償で行わねばならない。
被災者に一切の負担をかけない。
被災者に無暗に質問しない。
しかし、相談を受ければ、その心にそっと寄り添う。
大分の自宅には至る所に張り紙があるという。
格言を書いたものが多いらしい。
格言その1
たまがるほどの元気
たまがるほどの笑顔
たまがるほどの愛情
たまがるほどのまごころ
たまがるほどの幸せ
たまがるとは大分弁で「驚く、びっくりする」という意味らしい。
転じて、一杯とか、沢山のといった意味を含むとか。
格言その2
人生は山坂多い旅の道
その他にも色々と書き記しているらしい。
「かけた恩は水に流せ!受けた恩は石に刻め!」
この人は人のために生きなければならない、受けた恩は返さねばならないという使命感がある様だ。
なぜなのか?
なぜそんなにしてまで・・・
最後に一瞬だったが、情熱大陸のTV番組の紹介中に、母親の事を語った場面に心うたれた。
全身全霊を傾けたボランティアをする日々・・・その中で、「今一番望むことは?」と聞かれ、「おふくろに思い切り抱きしめてもらいたい」と語った時の顔が忘れられない。
そうか、そうだったのか!この人はこの思いで今まで人生を生き抜いてきたのか!
ちょっと顔が歪んで泣きそうになっていた。
一番認めてもらいたい人は母親だったのか!
限りある人生を悔いなく生きるために努力しているのは、このためだったのか!
切ない・・・でも、やっとこの人のやっている事の本当の意味が少し分かった気がした。
このために被災地にゆくのか・・・!!! この人は・・・頭が下がる。
11歳で生き別れになった母親をまだ忘れていない。
67年間経った今でも、亡くなった母親に認めてもらいたいのか?抱きしめて貰いたいのだ。
どれだけの辛い過去や恩を人から受けてきたと言うのだろう!?
久々にTVを見てみたいと思った。
TVの中で尾畑氏が語っていた。「今、一番してほしいことは?」と聞かれると、次の様に答えた。
「おふくろに思い切っり抱きしめてもらいたい。あばら骨が折れてもいいから思いっきり抱きしめてもらいたい」と言った。心なしか顔が歪んで見えた。
この人の歩んできた人生のすべてが、一瞬だが分かった様な気がした。
我々が気軽に「スーパーボランティア」などと軽々しく呼んではいけない人だ!
人に語り切れない・様々な苦労を骨身に刻んで生きて来た苦労人なのだ。
なぜ、ボランティアをするのか?と聞かれて尾畑氏は「今まで世話になった人に恩返しがしたい。そのためにしている」と答えていた。正直言って、このきれいごとな回答を信じていなかった。こんなに苦労ばかりして来て、人に世話になったからなどと私には到底口にできない。
逆恨みしても不思議ないほど過酷な人生を送って来ているのに・・・人の世話になったなんて、とても言えない。でも、この人は自分が幼い頃、亡くなられた母親に認められたくて恩返ししているのだ。そう分かった時、この人の優しさが少し理解出来たと思えた。母親に生んで貰った恩、幼くして亡くなったが育ててもらった恩!それを忘れていない。
そう、この人は自分の母親の愛に、まだ飢えているのだ。
だから、人に優しく出来るのだろう。勝手にそう思った。