茹でた後、つるんと一皮剥ける様な爽快感をお届けしたいです。

老々介護の果て!娘の涙・姪の涙・息子の涙を見て母が逝った事を実感する

2019/07/24
 
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平成30年10月12日(金)、午後5時2分頃母が亡くなった。死亡診断書の記載が、その時間だった。入所していた特別養護老人ホームの担当者から直前に電話があり、母の容態がおかしい、すぐに来てほしいとの連絡が入ったが、どういう訳か、私はタクシーにも乗らずに急ぎ足で特養に向かった。小走りに駆け付け15分程で到着した。

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Contents

老々介護の果て!~死に目にも間に合わなかった

私が、特養に到着したのは5時10分頃だった。痩せこけた母の死に顔を見ても全然涙は出なかった。
もう感覚がマヒしていたのだろうか?

 

 

タクシーで駆け付けなかったので、結局死に目には間に合わなかった。
しかし、タクシーに乗らなかったことを後悔してはいなかった。
母の死は何日も前から予感し覚悟していたから、もう特段何の感情も湧かなかった。
遠からず迎えが来ることを確信していたし・・・

 

 

亡くなった母に呼び掛けることもしなかった。
ただ、ボーッと突っ立って、冷たくなった母の額に手の平を押し当てて、この瞬間をどうやり過ごすればいいのか、途方に暮れていた。

 

 

若い職員が涙ぐみながら、母の死の間際を話してくれるのを、ただ黙って頷いて聞いているだけだった。
私には若い職員の方々が母の死に涙してくれるのが、不思議でならなかった。
私は泣けない。 薄情なのだろうか?

 

 

母の死に際に3人の職員の方が付いてくれていたと聞き、「死の瞬間は寂しくはなかっただろう」と素直に感謝の言葉を伝えた。

 

 

彼らが義理で泣いているのでない事は良く感じ取れた。
しかし、他人の母の死をなぜ、こんなに悲しめるのか!?私には、どうもピンと来なかった。
やはり私は薄情者なのだろう!

 

 

特養に入所して1年と1ヶ月!
10月に入ってすぐ、担当医と関係各部署の人達と向き合い、死に直面しても特別な延命治療を行わない事を確認し合い、書面を交わしていた。

 

 

母から二言目には、「早くあの世へ逝きたい」「生きていての仕方がない」と言うのを何度も耳にたこが出来る程、聞かされていた。
何かあっても延命治療はしないことを本人と事前に話し合い、本人も承諾していた。
母も特別な延命措置望んではいなかった。

 

 

母の腎臓はステージ5の段階に入っており、若ければ人工透析しなければ生きていられない状態になっていた
そんな状況だった。
いつ尿毒症になって亡くなっても全然おかしくない。

 

 

そして、何よりも油断していると胸に血が溜まり苦しみだす。
それが原因で、入所してから2回も入院していた。

 

 

原因は結局分からなかった。
とにかく歩くと胸に血が溜まりやすくなるので、晩年はほとんど歩いていなかった。
筋肉は痩せ細り一人ではトイレにも行けなくなっていた。

 

 

96歳だ!!もう充分に生きたと思う。
何が起きても不思議がない状態になっていた。

 

2年前に左大腿骨骨折

これが致命的なきっかけだった。この骨折以来、1年半の間に9回も入退院を繰り返した。介護度も1~2から3に上がり、最後になってやっと特養に入れた。しかし、人工透析をしていたら入所はさせてもらえなかっただろう。私の介護も限界に近づいていた。

 

 

入院するたびに、私は精神科の医師に呼ばれた。
あまりに母が「死にたい。死にたい」と口にするので老人性うつ病を疑われる。
その度に、私が「それは、もう母の口癖です。言っても治らない。ただ、人の手を煩わして生きているのが不本意なのでしょう」としか答えられなかった。

 

 

長生きしても母の様に不健康なら、これはもう不幸以外の何物でもない。
特に、若い人の手を煩わすのを母は気に病んでいた。
「生きていても仕方がない」と何度聞かされたことか?・・・もう数えきれない。
この言葉を余りに何度も聞かされるので、私は『うつ状態』に近くなってしまった。

 

 

しかし、この頃から、私は『安楽死』を真剣に考える様になった。
母の様に、もう生きていたくないと本気で思っている人間には安楽死を認めるべきではないかと・・・
母を看取った今、このテーマを自分のライフワークにしようと思っている。

 

 

自分がもう死にたいと思ったら、日本で認めてくれないなら外国に行き安楽死させてもらおう。
そのために旅費を貯めよう。Change.orgをしてみよう。運動をおこそう。
そのための資金をブログで稼ごうと本気で考える様になった。

 

 

母の様に愚痴って、長く生きていたくない。
母の死を反面教師と捉えようと考えている。

 

 

自分の死に様は自分で決める。
そう覚悟を決めた。今はそのための心の準備期間なのだと。

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88歳の時、突如認知症を発症

埼玉の田舎に一人暮らししていた母は8年前に認知症を発症した。軽い熱中症にかかり脱水症状を起こしただけなのに、長期入院してしまった弊害が拘禁症状の発作を引き起こしたらしい。2~3日で退院すれば良かったのに何を考えて2週間、3週間と2回も続けて入院したのか・・・今はもう分からない。

 

 

いわゆる被害妄想が起き、この症状が酷かった。
今から思えば、これは母からの『助けを求めるメッセージだった』と理解出来るのだが・・・発症当時はとても受け止める余裕が持てなかった。

 

 

認知症の知識にも欠けていた。
何が起きたのか、全然理解出来なかった。

 

 

突如、入院中の病院で、真夜中に病院中に響き渡る声で喚き散らし始め「這ってでも家に帰る」と騒ぎだしたらしい。
当然、朝一で私が病院から呼び出され、すぐに退院させてほしいと要求された。
要は病院を追い出されたのだ。当直の担当者はきっと一睡も出来なかったのだろう。

 

 

言葉がきつくなるのも分かる。
母の気性の強さも相当なものだから・・・本性が剥き出しになれば誰もが手こずる。
息子の私には母の性格が良く分かっている。頑固さも並外れている。

 

 

私はちょうど60歳になり、定年退職というよりリーマンショックから会社の業績が悪化し、リストラに近い形で退職していた。私しか面倒を見るものがいない。妻はフルタイムで働いている。

 

 

兄は連れ合いの母を引き取って面倒を見ている。
私しか介護の担い手はいないのだ。兄に母の介護の世話をする余裕などない。

 

母を田舎の自宅に連れ帰り、身の周りの世話をし始めたのだが、真夜中に通帳と印鑑を隠しまわり最後には何処に隠したか、分からなくなる。朝になると「私の通帳と印鑑が見つからないのだけど、あんた知らないかい?」と聞いてくる。 何度も何度も繰り返し・・・気が滅入って来る。

 

 

夜中にごそごそと動き回るためうるさくて、又何度も電気を照けたり消したりするので、明るくなったり暗くなったりで、私は極度の不眠症に陥ってしまった。全く一睡も出来ない日々が続く。もう睡眠薬が全く効かない状態に陥った。

 

 

疲れは全然取れずに朝を迎え、母の食事や洗濯、部屋の掃除などをしなければならないので、すぐに疲労困憊になった。
そして、朝から母は私を泥棒呼ばわりして、責め立てて来る。

 

 

適当にあしらっていたのだが、ある朝一番で「お前のカバンの中を見せろ」と迫って来た。
とうとう堪忍袋の緒が切れて自分のカバンを母に叩きつけ、「ここのどこにお前の通帳がある?よく見て見ろ!このバカ野郎!」と怒鳴った事があった。

 

 

一睡も出来ずに何度も朝を迎えていた私は、もう我慢の限界を超えてしまった。
憮然とした表情で睨み返してくるので心底憎らしいと感じ、思いっきり口をひねり上げてやった。
その時から母は私に殴られたと言い立て始めた。

 

 

今なら分かる。
母の認知症の症状も・・・『レビー小体型認知症』というもので、特に幻覚・幻聴が酷い。
人を泥棒呼ばわりするのは日常茶飯事!

 

 

でも、この時は理解出来なかった。
到底同じ人間とは思えなかった。
それ程、母の症状は突然で激しかった。
後から、勉強して精神科医にも相談して漸く分かった次第・・・

娘の涙・姪の涙・息子の涙を見て母が逝った事を実感する

色々とあった。しかし、やれる事は全部やった。後悔など、微塵もないと思っていたが・・・やはり自惚れていた。

 

特に、妻の力を借りた。これが一番の助けになった。私一人では到底乗り越えられなかっただろう。
強引に東京に連れ戻した後は、町会長さんや近所の「見守り隊」の人にまで世話になった。

 

 

ホントに色々とあった。この8~9年間は・・・
母の死を目の前にしても涙は出なかった。やるだけの事はやった。何ら恥じる処はないと信じていた。

 

 

私は強気だった。しかし、翌日になり娘が母の遺体を見て泣いた時、私は激しく後悔した。
午後になり姪が来てベットの上の母の姿を見て、やはり泣いた。
私も思わずもらい泣きしそうになった。しかし、グッと堪えた。
告別式は名古屋から息子が駆け付けてくれた。この時は息子が泣いた。これは応えた。

 

 

始めて、私は母の死を実感できた。目から汗が・・・涙が溢れ出て来た。

 

 

そう、母はホントに孫達を可愛がってくれた。私以上に!!
埼玉の田舎から、イチゴやトマトやきゅうりを背中一杯に背負って、何度も何度も運んで来てくれたのだ。
85歳を過ぎて何度も何度も、旅行から戻れば、おいしい桃やブドウを孫のために一杯運んで来てくれた。

 

 

可愛い孫たちのために、腰をかがめて必死になって届けてくれたのだ。あんなに重い荷物を何度も・・・何度も。
それなのに私は碌に感謝の言葉をかけていない。詫びたいと思っても母はもういない。声はもう届かない。

 

 

何でもっと優しい言葉をかけてやれなかったのだろう。碌に口も利かずに・・・私は母を完全に無視していた。
今、激しく後悔している。あんなにも、母は孫達を可愛がってくれたのだ。

 

 

認知症など発症する前に、私が母を東京の家に引き取り面倒を見るべきだったのだ。
85歳を過ぎて一人暮らしをさせていたのが失敗だった。
家の建て替えを急ぐべきだった。早く二世帯住宅にすべきだった。私に甲斐性がなさ過ぎた!

 

 

私だって可愛がって育ててもらったのだ。
大学まで出してもらい、卒業後、10年以上働きもせず司法試験を受験していた。
ただただ、甘やかされて育ててもらったのだ。

 

 

尋常高等小学校しか出ていない父と母は、私が『もっと勉強したい。』と言えば無条件に受け入れてくれた。
学歴のない二人は、兄と私が大学を出て立派に働き、出世して欲しいとしか考えていなかった。
そのために自分たちが犠牲になることなど厭わなかった。

 

私の我儘を黙って受け入れてくれた。
私は、その上に胡坐をかいていた。
それなのに、私はその恩にとうとう報いることが出来なかった。

 

 

10年以上も司法試験をダラダラと受験し続けて、最後にやっと諦めが付き不動産会社に就職した。
ただの高等遊民だった
今のニートを笑う資格など到底ない。

 

 

今は、ただもう祈るしかない。
心の中で詫びるしかない。

 

 

納骨式を済ませ、後は希望通り28年前に亡くなった父の墓に一緒に葬って上げるしかない。
今、この記事を書きながら又目から汗が・・・

 

 

遅すぎた!?何もかも・・・不甲斐ない息子だった・・・合掌!鎮魂!!

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